12.09.2015

憎しみが起こった時に知ることができる

Black Ratifa のクオリティ はエゴの死を示唆する。意識的にいるとエゴがつくりだす問題を拡散させることができる。つまり、エゴは問題をキープできなくなり、死を迎える、しかし、sweet な死だ。ブラックは優しく静かにエゴの死を受け入れる。決して攻撃したりしない。

子供の頃に、パワーは自分以外の人にあり、自分には無いと信じ込んでしまう、パワーの何たるかを知らずに、また感じることができずに、そして、もちろん、それ故に表現できなければ、無意識にもフラストレーションに陥るか、ディプレッションを引き起こす。

本質的には、Black はPeace の質である。この Black Latifa のパワーにディストーションが生じるとパワーはヘイトに変換される。 

peace - 平穏、秩序、安心、静寂
hatred - 憎しみ、嫌悪、怨恨

hatredにはさらに、冷たい、心が無い、つながりが無い、感情多入、悪いことをしても心が痛まない、計算じみている、人をコントロールしたがる、自分のやり方以外は正しくない、他人をけなす、落とし入れる、復讐心を抱く、自分以外のパワーを壊す、すると気持ちが良い、何故なら失ったパワーを感じることが出来るから、などが起こる。

これらは本来持ち合わせているパワーを実感することができずにいる結果として生じる。上記の逆も起こり得る。例えば、人を助ける行為でパワーを感じることができたりする。悪いことではないが、必要以上に無意識の振る舞いになっていないだろうか?

他に、事が難しくなってきたら乗り越えることができず、ヘイトが生じる。エレガントな方法で見極め、間違ったパワーの使い方でゴシップ、中傷したりする。自分を隠したままで。

ダイアモンド・ロゴスは、インクワイアリーを通してこれらのエモーションに向き合う。インクワイアリーはセラピストと向かい合うのではなく、鏡のようにパートナーが座って如何なるジャッジもなしにアンカリングしてくれる。インクワイアリーは続く…

どんな方法で憎しみを止めているか?  
憎しみをどんな風に出しているか?
憎しみの体験はどんな風か?

このようなインクワイアリーをやってみると無意識の自分の行動や振る舞いがあからさまになって見えてくる。そして、次に憎しみを感じた時、このことを覚えていたい。

私はこのインクワイアリーで、変な話だが、憎しみを味わって、味わって、味わい尽くすと、憎しみがぎゅーっとクリスタライズされ、びっくりしたことには、美しいひと粒の宝石になった。どこかのレベルで深刻にならない自分がいるのを見ているのが鍵であったが。

今となっては、何故か、憎しみがやってくるのを楽しみにしている私がいる、本当にそうでいられるか見てみたい。憎しみがやってきた時に知ることができるだろう。well come だ。


"2つ" は、解消できる

Day 3

リジェクティング(拒否する側) とリジェクティッド(拒否される側)、私たちはこの関係を内面でバトっている。つまり、内なるバトル、何かにつけて葛藤が起こる。

リジェクティング(拒否する側) がパワーを持ち、リジェクティッド(恐怖される側)はパワーレスである。プラスこのようなイメージが伴う、パワーレスはウィークだが愛らしく、また愛がある。パワーは力強いが、醜く愛が無い。

あなたは、愛らしくいるか、力強くいるか、どちらを人格的に組み込んでいるだろう?

ブラック・ラティファは静寂をもたらす。この静寂に内なるバトルは存在しない、完全なるOneness であり、aloneness である。愛とパワーのどちらかひとつに引き裂かれることはない。

二面性は静寂を破壊する。拒否する者、拒否される者。aloneness ではなく、lonelyness である。lonelyness は拒否する者、拒否される者に陥ると起こる症状である。

ブラック・ラティファは あなたが state of aloneness に留まることを指す。それを難しくしているもの、そこにインクワイアリーして、エゴ・アイデンティティ(エゴの本性) を明らかにする。

ダイアモンド・ロゴスはエゴ心理学に基づいている。私たちが "私" と呼んでいるものの正体を暴きだし、それから自由になる可能性に開いている。

What is right about avoiding aloneness ?

アロンネスを孤独と捉えると、瞑想者でない限り、様々な恐怖がやってくる。

Tell a way you resist aloneness.

そのような、孤独に陥らないようにどんな事をしているだろうか?

Tell me a way you experience aloneness.

孤独をどう体験するか? ここでは以前にインクワイアリーを深める方法として話した ソマティック・エクスペリエンス を用いる。

体験について話している最中に起こる感覚に注目し、センセーションを追い、同時に観察している。思考は想像であり、事実ではないことが多い。しかし、体は嘘をつかない。

同時に過去のショック・トラウトを解消する可能性がある。体と心から棘を引き抜くことができる。私たちを2つに分けているもの、まさにその体験の拒否された衝撃を解消させることができる。

多くの場合、それが起こった時、私たちは素の自分、素直な自分に触れることができ、同時に真理の理解が起こる。我が家にたどり着いた感覚が生まれる。あぁ、私は此処に居る、と。自分の中心に落ち着き始める。

これが、私の言うところ、インクワイアリーはトラウトワークと瞑想の両方に向かうツールとして使うことができる。



エゴが主人公 ?

Day 3

私たちが "私" と呼ぶ者、そのほとんどが無意識にもエゴを "私" と呼んでいる。私が何かを期待する時、私はそれを "欲している" のだ、こうなってほしいと。

なぜ、そうなって欲しいんだろうか? そう、簡単に言えば、心身ともに居心地が "悪くならない" ようにだ。そのためには、バトルもきさない。。

外に向かって自分をアピールしなければならないのだ。エゴ・アイデンティティはその方法論を考えて、考えて、考え抜く。この時に起こっているのがインナー・カンバセーション、エゴとバトルのはスーパーエゴである。

そう、リジェクティング (拒否する側) のパワーを持つ者、つまりスーパーエゴと一戦を交えるのだ。エゴはリジェクティッド (拒否される側) だから、周到にかからねばならない。時には、反逆児として。時には、良い子のふりをして。時には、ディソシエート (解離) で対抗する。

基本的にはエゴがストリーのマスターであり、主人公である。これらのストーリーは、幼い子供が母親との関係性で体験したことを成人になっても "内なる世界" で繰り返すようになる。そして、この確立したイリュージョンを持って外面的にもそのように振る舞うようになってしまう。

ともあれ、エゴが主人公であり、そのストーリーはマンネリ化している。いつもの同じパターン、同じイリュージョンだから。で、ある時点で自分自身に飽き飽きする。でないかい、ん?

そう、エゴ・アイデンティティ (エゴの主体性、本性) はオブジェクト・リレーションシップ (Me + You + Affect) の中に存在することができる。

エゴのストーリーは "拒否される"と"拒否する" のパワーゲームに大きく左右されている。そして、ストーリーはこのような結論に達する、 Me は良い子/可哀想な子/正しい子 、You は悪い人/強い人/間違った考えの人。それが、どう人格に組み込まれ、自分がどのように振る舞っているか? それをまず知ることが大事である。

ブラック・ラティファのエクササイズはエゴ・アイデンティティを浮き彫りにする。そう、私たちが "私" と呼んでいる者の正体を。

それは私たちの本質ではない。ego identity (エゴの本性) と essence (本質) を切り離すのだ。本物の自分を見いだす。それは、シンキング・プロセスではなく、ダイレクト・エクスペリエンスである。そして、ダイレクト・エクスペリエンスは Known ではなく Unknown である。



12.08.2015

Object Relationship

Day 3

人間の子供は生まれてすぐ独り立ちできない。助けがなければ死んでしまう。フード、気温 (寒い、暑い) 、衛生、などなど、生はサバイバルとして始まる。これらの助けは、家族にもよるが、多くの場合、母親がインチャージだ。

ここでその関係について云々はしないが、最低限、これらの助けが得られるか、得られないか、また、どう振る舞えば得られるか、などが、子供の人格形成への影響に多く関わってくる。そして、子供の中でセルフイメージが確立する。

子供は少しづつ自分で出来るようになっていく。この成長プロセスで母親と自分が別物であるという体験を通して。新生児にとって母親と自分の存在はひとつであった。しかし、助けを得るための努力を通して Me  と You (または others ) の理解が生まれる。

時に、子供が何かを必要としても母親はそれを与えることができない、もしくは、与えようとしない。多くの言語、態度で母親とバトルが始まる。云々云々。

私たちは成長してもなお、頭の中でこのバトルが継続される。インナー・カンバセーションが始まるのだ。子供 (エゴ) 、母親 (スーパーエゴ) として。頭の中に、この2者が存在するようになる。そして、もうひとつ、それによって生じる影響。この3つを合わせて オブジェクト・リレーションシップと呼ぶらしい。

この中でセルフ・イメージを築き上げていく。Me. が私で、You. がオブジェクト、そして 影響 Affect 。

リジェクティッド (拒否される側) とリジェクティング (拒否する側) 。そんな中で、拒否される側は可哀想でも優しくていい人、拒否する側は悪くてひどい人のイメージを作りながら、オブジェクト・リレーションシップはイリュージョンの世界を展開し始める。

他には、例えば、パワーある者に憧れを抱くように自分の力を他者に投影する。この場合、弱者であるかのように振る舞う傾向にある。弱者のように振る舞うか、もしくは反逆者として振る舞うか、人格の側面を築く材料となる。

エゴの自己形成にこのようなストーリー性、またはイリュージョンが加わっていく。そして、セルフ・イメージ、エゴ・アイデンティティ = 考え thinking に影響する。

ブラック・ラティファは、このエゴ・アイデンティティと、パーソナル・パワー 、すなわち、リジェクティッド (拒否される側 - powerless)とリジェクティング (拒否する側 - Power) のパワーゲームを、私たちのシステムから取り除いていく、と言うプロセスを通っていく。


Day 2 の Inquiry で

Day 2

まず、この心理学的理解とエクササイズを日本語に置き換える作業に一苦労する。例えば、インクワイアリーに使われた不思議なセンテンス、何を聞かれているんだろうと?ちと、ひるむ。たぶん、お題に沿っていたらどこからでも入っていいのだろうが…

Tell me a way you experience being rejected. 

どのように拒否(された)を体験したのか? 私は最初のとっかかりで、誰が関わって、どんな態度で、どんな状態で、などの状況的ストーリーに入ってしまった。それではインクワイアリーが深まらないことに不満を感じつつも。

そもそもの間違いに気づいた時、なぜ深まらないのか納得した。インクワイアリーは"拒否" 自体の体験についてたずねているのだ。

拒否がどんな体験だったかと今更に思い出してみると、それは云々云々のストリーではなく、ショック・センセーションが最初に起こり、次にパニック、そして、悲しみがやってきた。

ショック・センセーションは、頭の中が真っ白になり、全てが凍りつく。時間も、思考も感情も、ありとあらゆる全てがストップする。そして、このような自分の状態にパニックする。

得体の知れない感情のようなものが一気に流れ込んできて収集がつかず、何が起こっているのかさっぱりわからない、パニック状態。どうリアクションして良いのか、それすら恐怖を感じさせる。拒否されることは、小さな出来事ではないのだ。内側が、精神分裂の寸前までいってしまっている。

そして、この恐ろしい状態は、拒否されるたびに毎回起こっているのだ。あまりにも毎回体験するから、しこりのようになって、パニックに慣れ親しんでしまった。ひどい話だ。次いで言うと、精神分裂は茶判事で、可笑しな自分になってしまっている。もう、自分自体が手に負えない。私のディソシエーションはここから来ているのだろう、間違いない。

と、ここまで書いたが、そして、ある種の理解は得られたが、これでは深まらないのだ。知らないよりマシだが、理解してもリリースは起こらない。ましてや、下手すると、エゴとスーパーエゴの格好の餌食になってしまう。

インクワイアリーをもう少し厳密に行うなら、ショック・センセーションの体験を描写し、そのセンセーションを追う。パニックの体験を描写し、そのセンセーションを追う。まぁ、そんな怖いこと…  ^^;  

しかし、気づきの中で、意識的に行うとトラウマに落ち入ることはない。そう、SE トラウマワークとほぼ同じと言ってもいいだろう。体が覚えているのだ、その時に何が起こったかを。そう、頭ではなく、体が真実を話してくれる。描写し、センセーションを追いながら同時に意識的に観察しているのだ。ソマティック・エクスペリエンスがリリースを可能にする方法だ。体のショックを解放する。

インクワイアリーで上記のキーワード は、ショック、パニック、悲しみ、真っ白、凍りつく、得体の知れない感情、一気に流れ込む、収集がつかず、さっぱりわからない、などである。ストーリーは関係ない。

これらのキーワード (メタファ) に誰かが、なになにふんふん、と相づちを打ちそうだ。そう、クリーンランゲージのセオリーが当てはまる。しかし、全部を開いて広げる必要はないと私が思うのは、事が起こっている現場から離れてしまう危険性があり、ましてや、ファンタジーはごはっとうである。ファンタジーとイマジネーションは別物だ。

SE トラウマワークだけではない。瞑想も同じプロセスを通っていく。そう、インクワイアリーにはトラウマワーク、瞑想、その両方が兼ね備わっている。故に、私は もうじき、「瞑想者の Psychology 」と言う本を書きたいと思っている。

ちょっと、ここで一息入れよーっと。でないと話がそれていく。



12.07.2015

リトリートの2日目の朝の瞑想中に…

 前回のグリーン・ラティファからこの朝に至るまで、私はいつもの私を失っていたのだ。つまり、数ヶ月に及んで "ひらめき" が起こらなかった。ありえないことだ、私は常時ひらめきまくっているティピカルなエニアグラム7番である。

が、グリーン以来、全くといってひらめいていない。ジェットラグだと思っていた。ついこの間、一ヶ月ほどの間に国をまたいで 6回も飛行機に乗ったのだ。もしくは、忙しくしすぎて脳がパンクしたのかもしれない。

が、今朝の瞑想の最中にひらめきが起こった。幾つかのひらめきが… あっ、あれ? 戻ったぞ! いつもの私の頭の働きが、戻ったぞ! ちょっとホッとした。私は、もしかしたら、このまま呆けていくのかもしれない的な心配を持ち始めていたところだったのだ。

そして、瞑想中にこんなことも思い出していた。子どもの頃、それもかなり小さい私だ。誰かに突き飛ばされて頭を強く打った! と私は思い込んでいる。と言うのを思い出した。

予期せぬ、好ましくない状況の中で頭を打ち、今でも脳にダメージを残していると。そして、このダメージを回復させたいと強く思ったのだ 瞑想中に… 。私が何故、クラニオを選んだのか納得がいく。

私が実務的な思考を好むのは、安全だからである。私は感情が苦手なのだ。感情的ではないという意味ではないよ。ただ、物事を考える時、実用的か、そこに無駄はないか? と実質的な考えに留まっていると安心するのだ。だって、エモーションが必要ないでしょ。私の母がめっちゃ、感情型だから、感情というものが怖いの。

… なんて事を瞑想中に考えていたのだ。そう、瞑想中に。



12.04.2015

ブラック・ラティファ Day 1

 Day 1 

Diamond Logos / Black Latifa リトリート、イスタンブール空港で待ち合わせた参加者のひとり、ブラック・ラティファが2回目というカトリーナからその体験を聞いて少々、ビビった私がいる。「ブラック・ラティファがコアでその周りにレッドの壁がどないか、こないか…」と、彼女が話していた。

それは彼女のプロセスに起こったことか、それともレッドが必ずブラックの周りを取り囲んでいるのか、この時点では定かでないが、とにかく、レッド・ラティファのプロセスは私にとって困難だったと覚えている。母親との関係性が無性に私を傷ついた子供に陥し入れたのだ。

私にとってのレッドは未だにコンフュージョンである。もう一度、レッド・ラティファを受ける必要があるかも…ふぇ。何回受けてもいいらしい。それよか、他のを受けているうちにまた同じラティファを受けたくなるんだって。

それはさておき、今回のブラックはボォ〜っとせず、しっかりと取り組むようにと自分に言い聞かせた。困難に出くわしたとき、私はディソシエートする傾向にある。

さて、初日の講義の内容をリマインダーとしてここに書いておくと、Black Latifa は Peace。このラティファのセンターは第3の目、inner see、私たちのdeep water の根源、つまり、ミステリーなのである。

私たちは自分が誰か知っているつもりでいるが、しかし、表面的にである。あなたが眠ってしまったらそこにもう表面的なあなたは存在できない。眠っている間、あなたは自分がどこにいるかも知りえない。それはまるで、死の淵のようでもある。ブラック・ラティファはこの死の淵に行くことを可能にする。

私たちは新しいことに興奮するが、同時に変化することに恐怖を覚える。変化を受け入れることにビビるのだ。このブラック・ラティファでそのことにチャレンジしていく。チャレンジと言っても、優しく、静寂的に、これまでと違った方法で。

その方法とは、馴染みの思考とその思考プロセスにチャレンジしてみるといった具合だ。特に、thinking process。目覚めと共に思考が働き始める。スーパーエゴが何かを企ててエゴを掻き立てる。思考はどんどん忙しく回転し始める。しかし、実際には何ひとつとして目新しくなく、どれもこれもお馴染みの思考、そして、それらはオリジナルではない。(ダイアモンド・ロゴスはエゴ心理学に基づいている。)

思考には2つのダイメンションがある。ひとつは、トラディッショナル・シンキング。つまり、借り物な "考え" である。ジェネレーション的に引き継がれたアイディアや信条など "ある種" 的な考え、人格的で制限された思考体系。そのおかげで自分は "Known 知っている" つもりである。

しかし、借り物なのだから、基本的に不安がつきまとう。疑いが常にあり、知っているつもりでも信じることができない。とは言えど、エゴにとって unknown は許し難いのである。thinking こそが エゴ・アイデンティティなのだ。そして、私たちの考えの素は、そのほとんどが借り物である。故に、決してオリジナルに成り得ない。ここで話しているのは、実務的な思考についてではない。

ふたつ目は、Direct knowing 直接知る、または直接体験する。人から聞き集めた "考え" ではなく、あなたは直接それを知ることができる。それは、体験と呼ばれる。"考え" から脱出するのだ。あなたはそれを知っていると同時にそれを "知る" ことはない。ブラック・ラティファは私たちが知っていると思っていることの下に潜っていくのだ。ミステリーであり、アドベンチャーなのだ。

ブラック・ラティファはPeace 、深みに入っていく。その方法として、慣れ親しんだ思考にチャレンジする。Known  と Direct Knowing は違う。  "知っている" と"直接体験" は別物だ。ブラック・ラティファを妨げるものは busy mind 。間違った方法を私たちはとっている。unknowingness は状態であり、生の体験である。知らない、知ることがない、にとどまっている能力についてである。

と、こんな風な講義を聞いた後でインクワイアリーのエクササイズに入った。インクワイアリーの内容は書かないが、エクササイズの後、自分の思考回路の成り立ちに苛立ちすら覚えるほど、エゴとスーパーエゴの広場になっていた。つまり、蓋を開けてみると、何について言葉を発しようとも、そこにいたのはまさにこの2者である。じゃ、素の私はどこに居るんやと戸惑う。

えーー‼︎  私はいつになったらそいつらから自由になれるのだ! 思った以上に、というか、正真正銘、間違いなく、それは深く深く、こびり付いている。現状の私の思考はそれ以外の何者でもない。そこに居るのは、まるで、社会のコレクティブ・マインドの中で徘徊してる "知ったかぶりの老婆" だ。

良い悪い、恥ずかしい、傷つく、プライド、がんばれ、ほとんどがこの中のどれかに関係している。が、講義にあったようにどれもこれも、人から教えられた判断の上に成り立っている。私という人格がそれを証明するかのように映し出される。なんとも、情けない話である。決してオリジナルな私でありえないのだ。まるで、誰かに刻んでもらったハンコである。

私というキャラクターはいる。でも、違ったブレンド(判断)の寄せ集めなだけで、根本的に他の人とそう変わりはしない。素直に同調するか、リアクションするかの選択は、この寄せ集めたブレンドの法則に従っているだけなのである。

そして、私という人物は素直に同調するかやからではなく反逆的だ、そのなんとか反骨精神が功を成して生きてこれたようだが、すべては体裁の賜物である。

さて、このようなことは、今までに何度も知り得たことではあるが、そこから抜け出れたことはない。私はダイアモンド・ロゴスにそれを期待している。

これまでに、OSHOのおかげでそれを何度か味わったことがある。美しい体験だ。そして、今再び…

再び、Thinking 、エゴ・アイデンティティとしっかりと同盟を結んでいるのだ。古い馴染みの老婆が戻って店先に居座っている。すごく年老いているから、重い腰をもち上げて立ち去ってくれる気配は一向になさそうだ。今、この瞬間のこの時点においても。

社会の中で生きるとはこういう事だ、Unknown は危険だと忠告し、知っていると思い込む事で世渡りし続けようとする。しかし、居心地は悪い。何が間違っている。私はこれだけのものか? 生はこれだけのものか? 

と言う感じで、ブラック・ラティファが始まった。