9.09.2016

脱皮期間

今回のマナリー里帰り、とにかく、長い文章が書けんかったんよ。何を書いてもマインドにエサやってるみたいで(笑

今年の初め頃から、私自身に大きな節目があって、じぃ〜っと自分自身を観察し続けてるよ。ちょっと不安なような、無防備なような…

公共の場での文章の書き方が変わったんやけど、なんか、私自身の人格的な安堵というか、張り切り感が薄れたというか、ある意味、誰かさんを脱ぐ期間というか

別に大したことはせえへんねんけど、内面の自分を受け入れ続けてると言うか、まぁ、まだこの期間は続くようやで。

で、思うところにダイアモンドロゴス、やってくれたわぁ。私が誰でも無いものになるまで観察は続くんやで。

今まで、知らず知らずにどうやって、
世間でやっていけるか四苦八苦
知れば知るほど、誰かになっていく
見栄、自信、自慢、傲慢、卑下、愚か、落胆
ぜんぶ体験したら、あることに気がつく
ぜんぶ、恐怖が操っている

それでも、喜び、憂い、感謝、良い痛みは
それらから生まれたんよ。
私の生きてるってこんな感じなんや。

ふ〜ん。
そうなんや。

私が誰でも無いと言うことは、
消えていくんやね。

そやったら、受け入れるわ。





8.21.2016

ふと思う。

最近の私は恵まれた状況の中でのんびりと人生を過ごしている。さしづめ、大金持ちとは言えないが金銭的な苦境にあるわけでもなく、他人や家族から嫌なことを押しつけられることもなく、好きなことを出来るときに出来る、そんな人生を感謝しなきゃなんねぃ。

世の中には何もかもが辛く苦しいと感じている多くの人がいるのだ。物や事は取りようで、最悪の状況においてなお、幸福を感じる人がいないわけでもないってのが何よりの助けだね。

恵まれた状況を作るにはコツがある。コツコツ、コツコツ、頑張るってのがコツ。

コツコツ、コツコツは、お金だけじゃーない。人との関わり方を正しく知って、そして、そのように自分を修正していく。もちろん、人格や趣向や癖や恐怖なんてもんがあるよ。そんなん、時間が必要なことがいっぱいやで。

で、自分のそんなところにちゃんと目を開いてる。あっ、しまった (; ̄ェ ̄)間違ったなっと思ったら、出来るときに修正すればいいんだから。その繰り返しがコツコツ、コツコツ。

で、知らず知らずのうちに苦労じゃなくて、気がついた時にぁー、幸福を背負っていたと知ったら、そりゃ感謝が降りてくるよ。

幸福だなぁ、って思える瞬間が来たら、じっくり味わうのだ。その時が自分を褒めてやれる極上の瞬間さ。



6.16.2016

夢の中で目覚めている


以前のブログに、 ”夢の中で目覚めている” を
覚えていくことにしたと書いたよ。

それはどうやってできるのか定かでなかったんだけど、
今、ようやくその感じがつかめてきた。

日常の生活の中で、特に周囲の状況や人との関わりの中で
それを明らかにすることが出来るのがわかった。

それにはまず、自分の状態をずーっと観察し続けているのが前提で、
周りの状況や人と関わるときに "自分の何が変化するか" を見ている。

例えば、

外に向けての反応(エゴ)は控えるといいですがそうもいかなかった時、
ちょっとしたくだらないコメントをしてしまう時ってあるよね

自分が起こしたそんな反応に、これまた、自分がどう感じているか、
居心地が良いか、悪いか、何がそうさせているのか? 見ている。

自分の反応に対する優越感、自己反省や自己批判、また解離などは、
勝手に起こるのでそれをただ観ている。

こうすることで、無意識に、
または夢に目覚めていることができるとわかった。

分厚い雲に囲まれている
雲を蹴ちらかそうとするとさらに厚い雲が押し寄せてくる

そうならば、どんな雲かみていよう
どのように動き、どのような弾力があるのか?



前に書いた、

-- 無意識には弱点がある。そう、痛いところをつねってやる。
 すると、地獄の底から簡単に流れ出す。

-- 無意識には策略がない、策略を企てるのは体裁を繕う意識である。
 無意識は体裁や策略がないので意識が恥じるのだ。

-- それが出てくるとき、何らかの質を帯び、一見して意義がありそうに見えるが、
 根本的にはただのエネルギーのように思える。

-- それが、まずは、夢の中で目覚めているという事にならないだろうか?
 では、どうする? 



6.09.2016

エゴを脇におき、静かにいる

今回の Faisal meeting で私に決定的なことが起こっていたのは、静かでいるとき、何であれ、静かに観ている時だった。そして、観察のプロセスがいかにパワフルであるかを体験した。

これまでも、瞑想で静かでいることをしてきたし、インクワイリーで観察もしてきた。でも、そのどこかに、観察の中に、ワンダリングがあった。インテンスに観察している "私" がいた - といった感じ。

今回、そのワンダリングが消えた。本当にただ観察しているだけ。この違いは大きい。"観察している私" と言うより、"観察の状態" がそこにあったと言うのが正しいだろうか? うまく説明できないけど…

ワンダリングがないという事はどんな期待もない。とてもとても控えめな状態だった。私は、私自身にお手上げで、最初のうちにエゴをとにかく脇に置いておくようしてみた。

エゴを脇に置き、ただ、静かにしていると、周りのすべてが違っていた。最初は気づけなかったけど、途中で自分が、あらゆる面でとてもリラックスしていることに気がつき始めた。

Ameno から Milano に移動した翌日、朝起きた時から夜まで、友人に会っていても、食事をしていても、目をつぶればすぐに寝てしまえるほどの睡魔がそこにあった。つまり、どの瞬間でも目をつぶれば眠れるという奇妙な状態。

それは頭だけでなく、体と私の存在全部が眠りに吸い込まれそうなぐらいの勢いで、こんな種類の睡魔は初めてと思う。前日もその前々日も睡眠は十分とっていたのに。

今から思うと、静かな観察はずーっと続いており、この慣れない長時間の意識的な状態に無意識が耐えれきれず、眠りを誘っていたのかもしれない。何となく、腑に落ちる。

付け加えると、この意識的な状態はとてもソフトでインテンスな観察の状態とはまるっきりかけ離れている。まるで、何かに優しく包まれているような感じ。

そう思うと、私に起こっている事はただ事ではないと分かる。これはもちろん、Faisal とその meeting  group の影響なのは間違いない。Faisal と共に静かに座る瞑想が何度かあって、その時の Faisal はとても深く静かで澄んでいた。

彼は私のすぐそばに座っていたけど、その存在が消えていたし、彼のどんな欠片も見つける事はできなかった。ほんの数秒、何度か戻ってきたようにも思えたけど、またすぐに消えていった。そのことが、私に影響を与えないわけがない。

エゴが活発だと、私たちは何も語らずともうるさい存在となり、その人といるだけでとても疲れてしまう。逆にエゴがないと、さざ波のない湖のように静かで透明感がある。

私はこの静かな湖の中にゆっくりと引き込まれていったように思う。例え、私のマインドがまだ漂っていたとしても。

実際、その時、私のマインドは漂っていた。だから、漂うぐらいの控えめなエゴはあった。そして、エゴの漂える層から静寂を覗き込んだ。

自分以外の point of light (ここでは Faisal だが) が深く潜っていたので、私もその深淵を覗き込むことができた。

この体験は私の瞑想の質を変えたように思う、何が? と言うのは言葉にできないけど、つきまとっていた何かがなくなったような感じ。

しいて言えるなら、 I am no one のスペース だと思う。私が誰でもなければ、エゴはとても控えめでいることができる。



6.08.2016

Faisal に言わせると

Faisal に言わせるとこの世界はパラダイスである。

どれほど昔のことか知らないが、何十億年? (137億年前) もかけてこの宇宙が発展し、沢山の星が生まれ、その中でも最も美しい地球に人類が誕生し、花が咲き乱れ、鳥はさえずり、海の中では魚が沢山泳いでいる。this is a miracle! 

そして、ヒトはそれを目撃できる目を持ち、聞き、味わい、体験することの出来る体を持つことができた。This is a miracle! You are in the paradise ‼︎

と、 Faisal は言った。

確かにそうかもしれない。 そして、このパラダイスがパラダイスでなくなったのはいつからで、どうのようにしてそうでなくなったか? が、私たちの知りたいことである。

何であれ、周りの環境と大人達 (特に両親) によって、子供は 7〜8歳ごろにはすっかりエッセンスと切り離されてしまう。つまり、本来持ち合わせた能力を否定され、その代わりに条件づけの社会性を植え付けられて、自分を見失ってしまう。

子供は深く傷つき、無意識の代償として体に緊張を持ち始める。例え、大人になってそれに気づいたとしても、心を開くのに大変な時間がかり、深い問題の中で見失い、ある種の痛みは感じなくなっている。

あなたがそれをほんの少しでも開こうとするなら、あらゆる方面の痛みと混乱が生じる。だから、明確な方法で、ひとつひとつを理解しなければならない。それゆえ、5つのラティファ (5つの本質的資質) から始めるのが良い。

私はこのダイアモンドロゴスと言うワークはとても効果的にそれに働きかけることができると実感している。そして、エニアグラムの fixization はそのとっかかりにとても役立つ。自分のエゴストラクチャーのあり方であり、無意識の振る舞いと防御機能の上に成り立っているから、知っておいたほうがもちろん良い。

エニアグラムの9つのタイプ以外に、3つのベーシックがある。ソーシャル、セックス、サバイバルのどの傾向にあるか? 

ソーシャルは、人のいるところに出て行くべきか? 隠れ潜んだいるか? セックスは、セックスすべきか? しないべきか? サバイバルは、食べるべきか? 食べないべきか?  ちょっと簡単すぎる説明だけど、私自身と言えば、ソーシャルがベースだと思う。

と言うのも、社交性に欠けている。一人でいるのが好きなのだ。どんなオケージョンでも、いつもそのことを考えている。人と一緒に行動すべきか? もしくは、帰って自分の時間を楽しむか?  よっぽどのことがない限り、後者を選ぶ。

enough for now .....




6.06.2016

"知る" こと

Faisal が Family Hole と エニアグラムの fixization について話してくれた。生まれてきた子供は、何とかして家族の穴を埋めようとする。家族に欠けているものを埋めようとするんだそうな。

ある家族には愛、ある家族にはグランディング、ある家族には力、ある家族には知識、ある家族には成功を、こどもは欠けているそれ自体になろうとし、それを家族に与えようとする、が、不健全な家族に受け入れられもせず、何度も何度も失敗してしまう。

私はなぜ、7番なんだろう? 私の父と母、特に激情的な母の見ているメロドラマの中で育ったようなもので、私は母の感情が怖かったし、ゆえに、感情とは恐ろしいものだと受けとった。

そんな激情ドラマを子供の私が理解できるはずもなく、混乱し、かなりディソシエートした子供であった。どちらかと言うと夢みがちな。夢の中へ逃避し現実に触れないようにしていた記憶がある。

当然、子供の私は現実の中で夢のような冒険をすることはできない。今でこそ、人が羨むほど自由に動き回っているが、それは、現実からの逃避を実践できる年齢になってからのこと。今の私の自由は、夢の続きから発生したようなものである。

もひとつ、私は心理的にかなり混乱していた。もし、マスターに出会っていなければ、きっと、気違い染みた人間になっていただろうと想像できる。私はOSHOに救われたのだ。

私は彼の知識と知恵をどんどん吸収していった。OSHO は、私の混乱を溶いてくれた。これが、"知ること" である。自分に起こっていたことだけではなく、それ以上のことを知ることができた。エンライトメントと言うとてつもない可能性について。

それは、特別な人にだけ起こるのではなく、そして、高い高い山の天辺にあるのでもなく、自分自身に戻ることであると教えてくれた。我が家に帰るのだ。ここに I am No One. があった。

エンライトメントそれ自体が治療であると私は理解している。それは宗教でもなく、ましてや政治でもない。エンライトメントは深く深く安心して我が家に留まっていることである。

私には "知ること" が必要だったし、知識は感情に比べて安心できる tool だった。知識と理解が知恵を産み、私を救ってくれたのだ。

私が思うに、7番は感性的にも敏感である。内なる感情はとても豊かだ。7番に沢山のアイディアが浮かぶのはそのせいである。成熟した7番は自分が見つけた宝を美しく育て上げる力を持っていると私は思う。

私の自由は、夢の続きから発生したが "知ること" で夢から覚め、現実の中でそれを実践することが出来るようになった。そして、知ることでとてつもない喜びを感じている。私にとっての "知る" は体験の一部であり、理解が起こった瞬間、この体験のピークに達する。脳内ホルモンがドビュっと出る瞬間だ!  (⌒▽⌒)



6.04.2016

No one is there

何かがおかしい、かといって今までの私はこうじゃなかったのかと言えば、私は以前と変わらず、まったく同じ私である。

point of light の後、ずーっとこの調子で、とても居心地が悪いのだ。ゆえに、私は前より増して自分をずっと観察するようになった。

言動、振る舞い、自分のすべての行動をずーっと観察し続けている。居心地の悪さに対する答えを探し出そうとするように。

ダイアモンドロゴスミーティングの2日目、ランチの後、レクチャー前のダンスで 「はっ?」が起こった。

その閃きは、私は自分が "誰か" であると思い込んでいた。 事実、私は自分ではなく、誰か (パーソナリティ) を生きている。

ああ、なんてこった! ブルータス、お前もか!

この閃きはこの言葉で起こったのだ
 I am No One,

私は誰か (パーソナリティ) を生きていた。でも、真実は、私は誰でもないのだ!

なんという事だ、I am no one !!!!!!!
ブラボー ‼️ 🎉



ランディング

Faisal は、ダイアモンドロゴスミーティングの初日のほとんどをオリエンターションにつぎ込んだ。

長くワークに携わっている人、新しい人が混じっているらしく、ザワザワして、わぁ、こりゃ大変だなっと思ったけど、2日目になって分かったのは、人の事より、私自身がぜんぜんランディングしていなかったのだ、ははは。

Faisal は、私の想像を超える忍耐があった。それほど、私たちはザワザワしていた。出発する船に乗船した私たちは、2日目の今日、ようやくそれぞれの居場所を見つけたようである。

2日目の驚きは、Faisal は何とパワフルであるか! しかも、いろんなレベルにおいて。ああ、本当に来れて良かった、どんなに自分自身に居心地が悪くても、ここに私の居場所があったんだと深く安心できた。私はここに連れてこられたのだ。来るべきところに、呼ばれて来たんだと知った。

今年の一月、中国で受けた point of light 以来、私は不安と共に自分を見失っていた。コースの後の最初の1ヶ月ほどは "とてつもないもの" が開き、興奮し、ハイになっていたんだけど、そのあとが、始末の悪い事に、何が何やら分からなくなってしまっていた。

で、その後、ずーっと居心地が悪く、なんであれ、自分を観察しているしかなかったし、私の人生はこれで終わるのか? と言うほど不安があった。だから、今回、Faisal に会いに来るモチベーションもなかったのさ。

今日、Faisal はチャンティングの後、レクチャーに入った。とてもエキサイティングなレクチャーで、彼の話を聞き逃さないように注意していても、内容が濃すぎて、また、スピードがあり過ぎて、ある瞬間、私は理解するのを諦めた。すると、何ということだろう、理解するのをやめた途端にそれが起こった。

自分がある状態のスペースにいると気がついた。レクチャーの内容はどうであれ、彼の存在が物凄くパワフルなのに気がついた。なんと凄い人だ!と、で、その瞬間、トランスミッションが私に起こっていたのだ! 

彼のレクチャーが、とても興味深い話に加えて、それを理解しようがしまいが関係なく、奥の深い所にどんどん変容が起こっていく。まさに! わぁお!!!! だ。

理解しようと努力している時はそれに気づかず、頭を落とした途端、それに気づいた。

そう言えば、初日もそうだった。Faisal  と一緒にサイレント瞑想にいた時、私は私のマインドといたし、周囲の人のマインドもざわついていたのを知っている。なのに、Faisal はと言えば、瞑想の間、まるでそこに誰も座っていないかのように消えていた。

彼の席に "空" があった。もちろん、私は目を瞑っているし、彼がどうしているか確かめることはできないが、そこに気配もなく、彼を見つけることは出来なかった。

数回ほど、ほんの数秒だろうか、彼は戻ってきたように感じられたが、すぐにまた消えていった。レクチャーであれほどパワフルな人がこんなに 空に近いほど消えることができるんだとびっくりしたのを覚えている。

ともあれ、彼のおかげで、本日、私もようやくランディング出来たようだ。



6.03.2016

アティーシャの呼吸の瞑想

「とても深くゆるんで、リラックスすることだ」アティーシャの知恵の書の中で和尚が使った言葉。クラニオバイオにそれがある。

「しがみついたり、執着したりしないこと、従うのではなく、知るのだ」と続く。私たち (クラニオバイオ) の「介入しない、巻き込まれない、ただそれ (タイドモーション) と共にある」がこれに当てはまる。

人は夜眠りに着き、やっと自分自身からも解放される。夢のない深い眠りの中では抵抗する者がいなくなる。

そして、人体には、そのすべての活動を統合する律動的で微細な波が横たわっている。クラニオバイオの施術者はこれを調律する、言わば、楽器を調律する調律師のようであり、また、この微細な波は体を体を治す力を持っている。

施術者はその力が最大限に活かされるように自らがその波に従う従事者となる。詳しくはまたの機会としてここで書くのは控える。

「とても深くゆるんで、リラックスすることだ」私はこの言葉を何度も自分に問うてみた。この言葉の中に入ってみた。最初に起こったのは、先を急ごうとする思考が私をこの問いから遠ざけようとする。次に… 体の感覚や状態に入っていく。

落ち着いて体の感覚に入っていくと、ピクピクしたり、ねじれの解放でグルンと動いたり、箇所に手を触れずとも、この問いと共にいるだけでクラニオバイオな体があった。

しばらく、心臓の音を聞いていた。先を急ごうとする思考もそこにあった。次は何? 次は何? と私を急き立てる。

「すべての現象は夢のようなものである」そう、思い出した、今回の旅の間、私はこの事に従事しておく事にしたんだ。私がここでこうしているのも、夢のようなもの?

 「とても深くゆるんで、リラックスすることだ」

これを続ける。この問いは、どんどん私を今この瞬間へと導き始める。同時に、居心地の悪さがマインドを介入させ、私を "今" から引き離そうとする。

アティーシャの瞑想について和尚が話していた。「初めてアティーシャの呼吸の瞑想に取り掛かるには、世界の苦悩よりまず自分の苦悩から始めなさい。苦悩が起こったら、それを呼吸する、苦悩を吸い、喜びを吐く」。

思考に耳を貸さないように気をつけながら、体や気持ちの居心地の悪さを呼吸で吸い込む。この後の喜びを吐く、は簡単ではない。喜びを探さなければならないと気がついた。しばらくして、感謝なら思い出すことができると分かったので感謝を吐くことにした。

しばらく、この呼吸を続ける。後で、この呼吸にはプロセスが起こると分かった。呼吸を始めてすぐ数回目の吐くで涙が出た。その数回後、とても未熟な感謝だと分かる、吐くは感謝にとって変わって「未熟な感謝をお許しください」と許しを乞うに変わった。

そして、吐くたびに、感謝と乞うは、思考へと傾いていった。どうやら、私は、本当の感謝が起こるまで、この呼吸を続けなければならないようだ。

「すべての現象は夢のようなものである」
「とても深くゆるんで、リラックスすることだ」
  そして、 アティーシャの呼吸法、この3つを続ける事にした。


6.01.2016

夢の中、夢の外

「すべての現象は夢のようなものである」

思考が働いている、思考が働いていない、ぐらいは観察できる。その思考と思考の間のギャップも体験できる。でも、夢と夢の間はあるか?  それとも夢はずーっと続いているのか?

思考と思考の間のギャップ、そこにほんの少し、本当にほんの少しとどまることは出来る、が、そこから先は私の範疇になく、神のみが奇跡を起こす事ができる。

で、地団駄を踏んでいる私は、思考がないときも、私自身のエゴにフックされている、人格 (つまり、"私が観察している" ) が私の前に立ちはだかって、奇跡は起こりそうもない。

エゴと人格は同一なのだ。だから、ただ、エゴと言うよりは、もっとシステマティックに機能している、それが人格なのだ。

人格を支えているそのほとんどが無意識層にある、で、お手上げである。混沌とし、一貫性がない。意識はその表面を繕う役割を担っているだけ。

わたしが思うに、無意識には弱点がある。そう、痛いところをつねってやる。すると、地獄の底から簡単に流れ出す。

無意識には策略がない、策略を企てるのは体裁を繕う意識である。無意識は体裁や策略がないので意識が恥じるのだ。

これと、夢に落ちるは一緒だろうか? すると、無意識も夢だろうか? このコンテキストでの意識は夢であることに違いない。繕う自体、自然ではない。

無意識は? 私は無意識を理解しているか? 無意識って貯蔵庫のようなもの? 夢の材料を蓄える貯蔵庫のことか? 混沌として、一貫性がない。

それが出てくるとき、何らかの質を帯び、一見して意義がありそうに見えるが、根本的にはただのエネルギーのように思える。

意識より無意識の方が面白そうである。偽らないから真実に近い。意味を持たず、エネルギッシュだ。この無意識の中に、目覚めた状態で入っていくことは出来るだろうか?

それが、まずは、夢の中で目覚めているという事にならないだろうか? では、どうする? 

at least 無意識な中に目覚めているようにする、私にとって、夢の中か外かの? 助太刀になるかもしれない。

「すべての現象が夢のようである」に意識的にいるのは、広大すぎて、ぼんやりしてしまう。夢か、夢でないか、まったくチンプンカンプンだ。

夢は思考がないときも起こっているようだから、夢を支えている無意識に要注意しておく事にする。意識は形が見えるから注意しやすいけど、無意識は捉えどころがないから、ちょい難しい。





--- dear 奇跡が起こった人の意識、ボーディチッタ、釈迦の意識、I am trying some to reach you ---

5.31.2016

アティーシャの瞑想

イタリアの Ameno で行われる Diamond Logos Meeting の旅のお供に持ってきたOSHO - The Book of Wisdom。 読み始めた冒頭から、持ってきたのがこの本で良かったと思った。

どれほど続けられるか分からないが、at least この旅の間はこの瞑想を続けることにした。私は - アティーシャの瞑想 - すべての現象は夢のようなものだ - という意識を保っていることにした。

すべての現象が夢であれば、夢の中にいる "私" もまた夢であり、エゴと非同一化するエクササイズらしい。難しそうだけど、しばらく、この意識を忘れないようにする事にした…

… しばらく、思い出す度にそれをやろうと試みる。簡単ではないと分かった。数秒したら簡単にその事を忘れてしまう。目に入る、耳に聞こえる、外からの情報に持って行かれる。夢から覚めるのは難しい。これは、めっちゃインテンスな瞑想だ…

つまり、思考が始まると夢が始まる、そう言われているような気になってきた。つまり … そう、"つまり..." は、無いのだ… うううぅ…



4.22.2016

あっ!!!

スーパービジョンを含めた昨日までのクラニオコース、
なんだかとても幸せな気持ちに包まれている。
思いの外、充実感が半端なく、何かしら、
深い安堵が横たわっている。

強いて言えば、十牛図の7番目、忘牛存人。
すなわち…



牛にまたがって家にたどり着く。
心は澄み切って穏やかであり、
牛もまた休息することができた。
草葺の家で安らぎ、夜明けが訪れた時、
垂れ下がった鞭とロープを持っていた私は
至福に満ちていた。





それは私が仕事を完璧にこなしたと言うことではなく、
やれることをやった程度なんだけど、クラニオコースの後、
不思議なほど内側が満ち足りていたよ。

翌日、能登で行われた Meera の桜ペイントグループを
アシストしていた友人 ヘナ、ヴァユ、タティーナと
合流して原宿でランチして明治神宮を散歩する。

久しぶりに会う、でも、なんでも話せる楽しい時間。
タティーナがダイアモンドロゴスについてたくさん聞いてくれた。
私は自分の体験とか、ワークの進行や内容についてシェアーする。
この時は、まだ気づいていない。

で、みんなと別れた後、
大阪に帰る新幹線の中で「あっ !!!」

ダイアモンドロゴスの中国クラス!
そうか、そうなんだ! 私、やっぱり、以前の私ではない。
開いたまんまなんだ、開いておくことにしたまんまだった。
落ちていってるんだ、明け渡しが始まっているんだ !!!

そう、そこに気がついた
 (.^0^.) わぁ!

なんだか、凄いことが起こっている、と知った。

5月の連休にダソと一緒に who is in をファシリテートする。
あのインテンスな瞑想に入れると思うと、とっても待ち遠しい。
とは言っても、今、この瞬間もとても静かで満ち足りている。

ゲートを潜るとそこは神の懐。




3.26.2016

私に起こっていること

中国で point of light を受けたもう一人の日本人Hanya と今日、昼ご飯を一緒に食べた。あの後、私は自分に起こっていることに少々困惑し初めていたので、会うなり、「インクワイアリーをしようよ」と尋ねてみた。満席のレストランの外で待っている間、言い出しっぺの私から始まる。

私は自分に起こっている2つのことに気づいている。ひとつは、なんだか、ぼんやりして、自分が自分でない感じ、ある意味、何が何だかわからない。

こう言った精神世界のワークの後、躁鬱的なギャップが起こることは知っている。で、少なかれ、あの興奮の後だからまぁそれもありか、っという程度に観察していたんだ。

もうひとつは、やたらに落ち着き払っている。その落ち着き方ってのがこんな調子。ちょっと面倒だなって思う小さな仕事など、いつもだと、そそくさと手際よくやってしまうのが私だが、ここんところ、こう言った事が起こる。

ちょっとした小さな仕事をする時、いきなり、覚醒する。瞬間的に「おっ…」と思うのだけど、それが起こると、その時間を楽しむ事にした。なにも急ぐ事はないのだ。人生はこの瞬間が一番美味しい。

こんな事を Hanyaに話していると、とんでもない事に気がついた。困惑部分、ぼんやりして自分が自分でない感じがする、と彼女に涙目で訴えていたとき、「はっ!」 と、ある事に気がついたんだ。

私のエゴが形を取れない。言い換えると、エゴが私を形取っている。私が "私" という時、それは私のエゴが自分を指してそう呼ぶ。そのエゴが形を取れなくなってきているようだ、と気づいた。これが私の困惑の原因だと知って唖然とした。

エゴが形をとれない… ってぇ?

だから "自分" がぼんやりとしている、と言う風に感じていたんだと分かった。イメージ的に言うと、私という人物の輪郭がぼやけているという感じ。

こんな事に気づいて、私は、また、ダイアモンド・ロゴスのとんでもない凄さに嗚咽してしまった。知らぬ間にこんな風にワークされていたなんて、凄すぎる!  Faisal ( DLT の創始者 ) の顔が浮かんだ。

実際、なんやかんや言っても、私は諦めていたんだとまたまた思い知らされた。自分には絶対起こるはずがないと。何が起こるのか、起こらないのか、その実態もわからないままに。

エゴがこんな風に輪郭を無くすなんて、そして、いずれ、消えるかもしれないと知った。私は、エゴが無くなるなんてありえへんやろう、と信じきっていた、と思う。だって、それは " 私" なんだから。私が、無くなるなんて、ありえへんやろ。

中国の Point of light の2日目、欠けていたパズルに何かがスポッとはまった体験に至極興奮していた。見当たらなかったピースがあの瞬間、収まった。扉に鍵が差し込まれカッチャと音がしたのだ。

別にどうこうするわけでないが、開いた扉は今も開いたままにしてある。何か、特別な事が起こるわけでもなく、また、扉の中に入って行くわけでもない。ただ、開かれたままであると知っている。

そして、私は今日、もうひとつの事に気づいた。それは…

もうすでに、崖から突き落とされていた。それに気づいたとき、マスターの影がちらっと見えた。 恐れもないけど、抵抗する術もない。ただ、また、涙が浮かんだ。

私はこのふたつのことをそのままにしておく事にした。ひとつは、扉は開いたままである。そして、もうひとつは、すでに崖から突き落とされていた。私はどこかに落ちていくのである。

エゴが形を取れなくなっていくのなら、きっと、留まろうとする者もいなくなっていくんだろう。それを見ていることにした。




3.14.2016

自分への旅


私は who is in 公案を使った瞑想リトリートをけっこう続けている。
今や、ファシリテーターとなっているぐらいに。


この瞑想は本当に即効性がある。


しかし、とても禅的なアプローチ故に、
核心にたどり着くのは至難の技である。


例え、そのすぐ近くにいたとしても、本人が気づかない。
何故なら、"何" を探しているのか知らないのである。


何かあるんだろうと言う霊妙的感覚だけが
それを突き動かしているのだ。


だが、たどり着こうとする場所も、
色も、味も、匂いも、Unknown なままである。


だからと言って、たどり着いたら終わりでもない。
"体験の中にい続ける" と言うのが正しい説明かもしれない。


考えるのではなく、"体験" を体験し続けることに留まるのである。
ここが、その入り口であり、始まりとなる。


核心にたどり着くのは至難の技であると言ったにも関わらず、
私は、この瞑想は即効性があると言った。


そこが嬉しいところだ。


"それ" が起こるとき、一瞬にして起こる。
まるで、ワープしたように、扉が、突然に開くのだ。


突然、あなたはその場所にいる…
そして、そのことに気づく。




分からないままにも、この技法を数日続ける。
使われる技法はアクティブ瞑想と公案。


アクティブ瞑想は体を浄化し、
ある種のエネルギーの通りを良くする。


公案は心理的 (感情、思考) の様相を見続け、
それから自分が切り離されていくのを観察し続ける。


ビッパッサナは無言で観照する。


公案はビパッサナは違い、自分に起こっているありとあらゆる
 (考え、気持ち、感覚) について公言しながら観照し続ける。


すると、思考の鍋が空っぽになる。


現代人にとって即効的であり、
同時に痛みや不透明感も明るみに出るので浄化される。




私は、ダイアモンド・ロゴス・ティーティングスと言う
ワークに出会って、そこで行われる最初の
 5つのラティーフのプロセスは素晴らしく的を得ていると思った。


who is in のように、自己を探求するエクササイズは
インクワイアリーを使う。


しかし、こちらのガイダンスは禅よりも親切である。


心理学的な講義があり、段階的に不純物を取り除いてくれる
セラピュティックな側面がある。


私たちは、この社会で生き抜くために
自分を檻に閉じ込めた。


本来備わった能力を最低限にセットし、
自分につながる扉を封じ込めたのである。


Who is in 瞑想にも
セラピュティックな要素が無いわけではない。


実際、あるのだ。


しかし、こちらは、理的な理解が促されたりしない。
そこがミソである。


強烈な光とトラウマを超越した理解が起こる可能性が
奪われないように構成されている。


もちろん、公案に向かっている人が何を見たいかによるが、

自分が真実であるかどうか、
強烈に映し出される体験をするのは間違いない。


自分への旅は、真理を求める探求者の旅である。
そして、この旅は我が家へ帰る旅である。


その入り口でさえ、甘露で芳しい。





3.12.2016

Point of light 続き





まずは、Facebook にコメントした内容を記述。
ブログにも残しておきたい。

そして、ブログの方は、その後に、更に続く。



--- Facebookのコメント---

簡単な話にすると、point of light という乗り物に乗って私たちは旅をする。
産まれる前は Abusolute 絶対的なフィールド、ピュアーアウェアネスであった。

その 境界と制限のない oneness から切り離され、
point of light は物質界に精神を持つ魂と呼ばれる個の存在となる。
この精神は無知から知識、知識から知恵と成長することができる。

個となった存在はこの星で集団的に "何か" をやり遂げようとする。
個のクリエイティビティ、マス (集団) のクリエイティビティ。

ある意味、自分を証明しようとする。

そこに、point of light に備わった本質的な要素、愛、共感、意志、力強さ、喜び、
継続性、想像力、創造力、沈黙、慈悲、などといったツールがある。

しかし、個がマス(集団)になった時、道徳、比較、罪の意識、
恥などが新たに生まれた。

証明はこれらからいかに逃れることができるかに置き換わる。
そして、本質的要素はこれらの新しい制限的意識に乗っ取られ、忘れ去れてしまう。

DLT は、どのようにしてそれを失ったか? 失ったものは何か? 
本来の自分の個性を発掘する。

個であり、それぞれがユニークな質を持つ個であり、
なぜ、この世に生まれ落ちたのかの意味を知る。

どうも、個には目的があるようだ。

だけど、目的はエゴの知り得るところではないよ。
エゴは point of light に仕えることで目的を思い出す。

私が思うに、自分が楽しいと思えるなら、正しい道の上にいるってことさ。
辛くて苦しいなら、スーパーエゴ(制限的意識)に乗っ取られているわけさ。

で、個がパーソナリティやエニアグラムの fixzation であればあるほど、
俗世界のドメインにマニフェストしている。

個が、point of light に身を委ねると本質的要素の体験として続く。

ここまで書くと思ったのは、point of light は絶対なるものから生まれ、
"情報収集する何か" ではないかと思えてくる。

その何かとは、point が個であれば、光の個。
個はパッセージ(移動、通過、出入り口)で、
パッセンジャー(乗客)でもある。

物質世界を体験する旅に出た "光の個" 。
そして、いずれ、絶対なるものへ帰っていく。

科学的に考えると、パッセンジャーは情報収集する、
量子的な微細界によって成り立つ宇宙という生き物の
神経系的な役割を果たしているとか、ははは、飛躍しすぎ?

まぁ、例え、それがセオリーであっても、
個 (個人) としてマチュア (成熟) にマニフェスト (生きる) できるまで、色々あるわさ。

中国にいた時、こんな話を聞いたよ。
現在に生まれてくる子供はインディゴチャイルドって呼ばれるんだって。

私たちよりすでに高度な頭脳と身体能力があるらしい。
つぅことは、収集された情報は新しい新人類、
バージョンアップした光の個を生み出してるってことでないかい?

 ---Facebook のコメント 終わり ---




ここまでは、Facebook のコメントで書いた内容。

続きがある。

上記のような話は何処かで聞いたことがある話であり、
point of light を受けに来た私にとってさほど重要ではない。
リトリートで耳にした内容に私がコメントを入れた具合である。

私はこのリトリートの2日目に興奮した。
それは何か? ここが、私にとって非常に重要なのだ。

"Absolute 絶対的なもの" から生まれたとすると、それは自分の外にあり、
再び、そこにたどり着く旅をしなければばらない。

宇宙は外にある、神さまも自分と一体ではなく誰か自分以外の存在、
無は私たちの周りにあるが無が私たちの実態であると表現しない。
上記を言葉のまま鵜呑みにするとそういうイメージが払拭されない。

私の興奮は、ある瞬間、それが起こったんだ、
私が無であり、無が私である。

それを宇宙と呼ぼうが、神と呼ぼうが構いはしない。
衝撃的だった一瞬の出来事。

しばらく、それを言葉に置き換えられなかった。
何が起こったのか、分からなかったからである。

探していたものは外になく、この "生身の私" だった。

私はこれまでに、どうも、
イメージを追い掛けていたようだ。

そして、これは違う、これも違う、
あんなどでかいもんが私にコンタクトするはずがない、
半ば、諦めな振る舞いだ。

私にそれが起こるわけはない、私なんかに…。

私は、私のイメージの中でそれを探していた。
イメージは頭の中にある。

looking thing in the wrong place とはこの事。




今日、玄関周りの植木の枝を切っていた。

春や初夏になって新しい芽が出やすいように。

私は至って穏やかで、瞬間瞬間の作業に専念できた。

私が無であり、無が私であった。

私は目を瞑ると自分がどんどんシフトしていくのが感じられる。

開いた扉は開いたまま。









3.11.2016

ファイナリー、point of light

point of light について記述しようと思うのだけど、何をどう書けば良いのか、まだ、私の中でクリアーではない。今回のリトリートはこの point of light につてである。まぁ、分かっている事だけ書いてみよう。

何故、クリアーでないのかと言うと、point of light は色んな形で体験できるという "代物" だという。異なる形で体の内側、外側に。そして、point of light はとても重要なpassage なんだって。ここで言う passage ってどういう意味? と私は考えている。

passageを直訳すると、通行、通過、移動、通路、経路、出口/入り口、旅、乗車、流れ、進行/進展、移行、伝達などなどで、進む/渡る/通過する、と理解すればいいと思う。

point of light はとても重要なpassage 、point of lightは、ひとつのダイメンションから他のダイメンションへ、ひとつのドメインから他のドメインへ、ひとつのリアリティから他のリアリティへ、と言った具合に。

私たちは、自分の True Self 、True nature、True Spul を探し求めさまよっている、幼い頃、それを失ったその時点から…。そして、代償となるものを見つけその痛みを最小限に抑えようと試みる。

例えば、エニアグラム1番だと、パーフェクションを遂行する行為そのものがいずれ自分を取り戻す事が出来るかもしれないと考える。1番の fixation だね。このパーフェクションは、point of light のひとつの様相であり、エゴがそれ自体の方法で point of light に近づこうと試みるわけさ。私たちは point of light を自分の中の記憶として覚えているからさ。

 エゴが考えるパーフェクションと、point of light のパーフェクションは根本的に違うんだろうね、きっと。point of light はパッセージだから、エゴ・コンシャスネスからエッセンシャル・コンシャスネスに移動することができる。

エゴは point of light を探し求める、エゴは探求し初める Who am I ?   What my true self ?  

もともと、エゴはこのように point of light の仕えていたわけさ。だから、エゴは世俗で生きながらえることが出来ている。エゴは、パーフェクションに仕えることができ、エゴはラブに仕えることができる。エゴは Being に仕えるのさ。

ただ、パーフェクションやラブの影 (シャドー) を追いかけるようになってしまうと失敗に終わるってのは前にも書いたね。DLT ではインクワイアリーを使ってこのシャドーを見ていくんだよ。どんな ホール (穴) があってどんな投影が起こっているか、何故、失敗するのかを知ることができる。

エゴは、防御や逃避したり、調整や固定したり、否定や拒絶したり、悪いエゴから理想的なエゴへ変えようと試みるが失敗する。投影 (シャドー) の中でそれをトライするから。言えば、オンリー、エゴ・ドメインの中でのハッスルである。

私たちは、少し方向を変えてみるといい。マテリアルな世界からエッセンシャルな世界へ視線を変える。すると、この試みは飛躍的な試みに変わる。私たちは成長し、拡張する。そこに、自分を変えようとする試みがなく、ただ、事実を受け止めているにすぎない。過ぎないと言ったら心許ないが、最大級の振る舞いである。この要注意なパッセージが、私自身を見つけ出してくれる、とても、リッチで尊い存在を。

Point of light の教えは 個々の Soul がそれぞれのユニークネスを見出すサポートする事にある。私の祝福、私のクリエイティビティ、個々のSoul がこの世界にシェアーしに来たのだ。役割分担、共有、おすそ分け、参加、しに来たのだ。健全で間違いのない Point of light に敬意を持って。それは、あなたが住んでいる王国の、存在からのギフトである。

無意識にこの王国を探し求めてはいるが、それが見つかるまで、私たちは幸福と感じることができずにいる。

静寂はこの王国の所有者である。だけど、私たちがそれを探し求める時、何かの興味をそそるアトラクション (シャドー) の中で探している。何度も何度も失敗する。シャドーを追うことは間違った場所で正しいものを探しているに過ぎないからだ。ゆらゆら動く蜃気楼を追っている。

チャイナク・エッション(誰かが先生に質問する) : あなたは、エゴが Point of light に仕えると言いました。エゴは スパーエゴにも仕えます、何が違うんですか? 

------ スパーエゴに仕えると、あなたは自分を失い絶望感か、または、反逆児になる。エゴが、Point of light に仕えると、あなたは軽さや、喜びが体験される。エゴは、外側からの要求を満たそうとする、親の要求、社会的な要求、道徳的な要求を。だから、失敗する。エゴが Point of light に向くということは、あなた自身の光に従う事になる。故に、ここで Point of light を考察していくプロセスで多くのイシューが浮かび上がってくる。エゴ観点からのイシューは恐ろしくて取り掛かりにくい。Point of light の観点からのイシューは、あなたにリソースがあり、「オッケー、じゃ、次のイシューは何?」と、興味を持って解決しようというポジティブな意欲がある。開いてほしいなぁと言う切望ではなく、ジャンプが起こる。------

ワークはこのようにされる。エゴとスパーエゴを切りなす。あなたと他者の真実へ。シャドーから光 (真実) へ。影を見ず、影を投射する太陽に向き直る。太そして、陽の後ろには常に果てしないものがある。

私たちはどの様にそれに仕えることが出来る? どう、具体化することができる? 

エゴを正しく育て、正しい道に乗せてあげる。エゴを悪いものと捉えない。エゴに Soul のタスク (仕事、任務) を提案する。それは、私が誰かが?と言う問いに大いに関わっている。

------ Point of light とは?

時には、ルミノシティー (聡明、真光度) として体験される。Soul(魂)、Spirits(精神)、光の輝き (inner star) 、True Nature ( more being)、True self (Soul) Traverer in eternal in incarnate time and space (本当の自分、肉体化された時間と空間の中で永遠に旅をする)、re-incarnate entity (肉体化された存在)、eternal youth (永遠の若者/古くても若々しく) 、スパイダー of Existance (生を紡いていくから、ステーションを紡ぎ学ぶ)、 Lord of being (存在の主) などなど。

Point of light は 沢山の姿となって現れ、沢山の名前を持つ。沢山の側面があり、神、マテリアル、アクション、ひとつのライフから他のライフへ移る。

これらのパッケージ になった Point of light は個々の目的とライフを教える。

何故か、胸の奥がチクッて痛い経験をしたことが誰にもあると思うんですが、それは古い古い痛みだそうです。

ここまで書いて、果たして、私は Point of light を理解しているかさだかではありませんが、自分の確かな体験と照らし合わせいている最中です。

こんな感じ?

 *・゜゚・*:.。..。.:*・'(*゚▽゚*)'・*:.。. .。.:*・゜゚・



3.09.2016

トリニティ - レクチャーから

忘れる前に覚えていることを記述しておかないと…、それに、ノートは当てにならない。文字は時間が経つと inspire が消えて無くなる。つまり、霊感に導かれた部分。

Point of light で沢山のことを聞いた。ここに書こうとするのはその一部でしかなく、DLT の全貌は見えないけど、まぁ、ぼちぼち行くか。

まずは Trinity (3)  について。キリスト教ではそれを三位一体と言うね。DLT て言うところの Trinity と同じ意味合いかは分からんけど。

DLT では、Law of 3 (3つの法則)、Principle of 3 としている。私達はそれを知らない、気にもせず過ごしている、例えば、重力のようにそこに確実にあるもの。この3つの法則が客観性、具体性を与えてくれる。うん、理的な理解は物凄くウェルカムだ‼︎

で、今、ノートを見直している… 
乱雑すぎる ( ̄▽ ̄;)  

オーガナイザーがレクチャーをレコーディングしてくれているので後で聞き取れるから良いものの、まぁ、覚えていることを記述しよう! ははは

最初に、3つの Self がある事を理解しておこう。

1. Being 存在、実在、絶対的存在
2. Soul ( individual self ) 精神、魂、動因、原動力、物事の精髄   * point of light はここに属す
3. Ego ( worldly self ) 自我、自身、主観

そして、そのそれぞれが属する領域がある。

1. Absolute 純然たるもの、絶対的なもの
2. Essential 本質的資質、不可欠の要素、中心的要素
3. World この世的俗世界

理論上、3つに分けられているけど、これらが1つの中にあると分かっている必要がある。1つの中にあるというのもなんだな、それぞれがバラバラに聞こえるから、言い直して、1つの存在の幾つかの側面を理的に言葉で表していると言った方が正しいと思う。でなければ、どれもこれも断片になってしまう。私は今回のリトリートでそこに至ったんだ (o^^o)  

仏教で言うと曼荼羅、そうかな?  仏の本質であり、また、宇宙観であり、即ち、内的な、または、その個人のランドスケープとでも言おうか?

DLT ではそれをダイアモンド・ボディーと呼ぶよ。何故かと言うと、そのあらゆる面がそれぞれの状況や状態、内容、外部の状態と内容によって色んな輝きを発すると言う例え、ここにキラキラ感がある。つまり、私達はとてもゴージャスなダイアモンドであるらしい。だから、光を投影し、またその光を放つために磨かれるのを待っているのだ。

ちなみに3つの領域については、私はクラニオ・バイオ・ダイナミクスのティーチャーである、この Trinity にはつくづく納得させられてしまった。クラニオバイオの世界にも3つの領域がある。CRI / mid tide / long tide である。CRI はもっとも物質的な運動、mid tide は生命固有の潜在力、long tide は個やもっと大きな存在のマトリックスである。なんか、私は凄いことをやってのけているじゃないかと、じんわり感動するではないか。

さて、続けていこう! 
--- 3つのドメイン(領域)

1. Worldly Domain
私たち人間がめっちゃ "ねんごろ (積極的に絡まっている) " になっているところ (笑。  このドメインにはエゴが必須である。エゴがなければ俗世界で生きていけない。パーソナリティとエゴが機能している。エゴが機能すればするほど上手く行く世界である。この世界は物質的世界であり、パワーやファミリーカインドが支配している。ほとんどの私たちがこの世界のみに従事している。

例え、精髄を求めたとしても、エゴの範囲でしかない。関係性、パワー、マネー、成功、エトセトラ。だけど、満たされることはない。底の抜けた壺。

2. Essential Domain
この世界はエッセンスと呼ばれる。本質的資質のことだ。ほとんどの私たちはこれに気づいていない、でも、感じている。愛、喜び、などを通して。でも、それがどこからやってくるのかは知らずにいる。これはスピリチュアルな旅である。

アクシデンタルにそれを体験する。その体験をまた取り戻したいとエゴが欲して物質的感覚の中で再現しようとし失敗する。

3. Absolute Domain
ベーシックなシンプリシティー ( 基本的単純世界) 。個人的ではないもの。私たちの基盤。エッセンスがやってくるところ。存在の本質、Ocean (大海) 。

人間はこの3つのドメインを持ち合わせている。そして、それぞれがマニフェストされる。が、気づけない、知りえないでいる。

続いて …
--- 3つの Teachings

1. World Teachings
物質的な世界観の中での学び、知識。世界について、知ろうとする、学ぼうとする、パーソナリティやエゴについても。

2. Essential Teachings
エソテリック (秘技的) な教え。このような教えはそのほとんどが隠されている。探求者のみがそれを見つけ出すことができる。(point of light のティーチングは別の時に記述する)
 
3. Absolute Teachings
ベーシック・ネイチャー。本性、絶対的存在。Oneness について。

続いて …
--- 3つの Identity

1. World Identity
俗世界の中のエゴ・アイデンティティ。エゴがあればあるほど自分を表現できる、気づいてもらえる。俗世界の中で生き抜く術がここにある。

2. Essential Identity
もっと魂に根づいている。本質的資質に根づいている。このアイデンティティは俗世界にも、アブソリュート界にも移動することができる。

point of light はこの領域に存在する。存在するなんて言ったら、自分とは別個の何かみたいな表現だけどそうではない。point of light は、私の理解ではマニフェストの姿と捉える。以前にも point of light は色んな形で現れるから色んな名前がついていると書いた。ファイサルはこの呼び名にしっくりきていないらしい、が、他にいい名前がないのでとりあえずそう呼んでいる。

3. Absolute Identity
魂の潜在力。沈黙な質を与えてくれる。世界というよりは大海。"あなた" ではなく、ピュア・アウェアネス。フォームレス (家無し) じゃないよ、形が無い方 (笑。限界が無い。セルフと言う感覚がない。だから、アイデンティティとは呼ばない。

続いて…
--- 3つの Consciousness

1. World Consciousness
ある種の意識、制限を受ける、エゴによって束縛されている。駆り立てられる、悲しみ、怒り、熱い、冷たい、ミニマム。

この意識は啓発し育てることができる。ビジネスマンは啓発 (より高い認識・理解に導く) しながら成功を収める、ってな感じで。エゴ・コンシャスは育てることができ、集中させる事ができる。

2. Essential Consciousness
さらに、展開的、進化した導きの意識。もっとパノラマティック。ダイメンショナルな意識で、感情と感覚、深い感情などをつなぎ合わせる。DLT では、ダイアモンド・コンシャスネスと呼んでいるらしい。

ダイアモンドなパーソナル・コンシャスネスらしい。もっと洗練された意識。すべての様相がつながり合う。ダイアモンドのすべての側面が1つになる。ダイアモンド・ボディのガイダンスが展開される。

3. Absolute Consciousness
これは意識のオープン・フィールド。絶対的なピュア・アウェアネス。このアウェアネスがマニフェストすると "あなたは家に入った" と表現される。Wisdom と共に在る。

Absolute is pure awareness, Domain is more personal consciousness.

続いて…
--- 3つの Quest of Humanity

1. World Quest
どうしたら関係をうまくもつ事ができる? どのように愛する? どのように共同できる?

2. Essential Quest
私たちは自分が何者か知りたい、精神、生命、神とは何か?  私は誰か? 

3. Absolute Quest
私はどこから来た? そこに帰還したい、帰還するとは? 絶対的なものとは?

------ 

まぁ、取り敢えず、今日はここまで。かなりはしょって書いた。そして、先生は言った。アブソリュートからスタートしなさいと。そこにアウェアネスがある。例え、そこからスタートしてもイシューは浮かび上がってくる。でも、アブソリュートからスタートしなさい。俗世界からスタートしたら、エゴが作り出した偽りか、影を追い続けることになる。

ちなみに、クラニオバイオでも同じである。long Tide からスタートする。何故なら、long Tide は mid tide も CRI もその中に存在させ、映し出しているからである。long Tide から、大きな領域から、眺めると、正しく投影するできる。何故なら、介入しない、巻き込まれない、の立場だから。

私はこのレクチャーを受けている間、すべてが自分の中にあり、展開されていると分かった。以前は、そんな話を聞いても頭の中の想像で、実際の感覚はなかった。でも、今回は違う。扉が開いたのだ。これまでに受けた5つのラティファのプロセスが機能している。あれがなければ、ここにつながらない。

開いた扉はアブソリュートに降りていく真っ暗な階段のようにも見える。私はその扉を開けたままにしておく事にしよう。アブソリュートからの風通しが良いように。絶対的なものから本質的要素と俗世界が merge するように。 





泥が沈み始めた

ひとつ前のブログで、マテリアル・ドメイン、エッセンシャル・ドメイン、アブソリュート・ドメインについて書いた。中国で受けたDLT の point of light の先生が言ったよ、精神世界の教えは本当にシークレットで知りたくても一般人がそれを見つけ出すことは出来ない。今でこそ、色んなワークショップが開催され、その一片を垣間見ることができても、本当のところ、確信にたどり着くのは難しいね。ほとんどのワークが一部の側面を拾い上げて、核心ではなく、確信に結びつけようとしている。

ダイアモンドロゴス・ティーチングは知ることのできないシークレットな教え (秘儀) が展開されていると先生が言ったよ、私もそう思う。だから、まだパーツがはまってないサニヤシンにお勧めする。サニヤシンでなくても、自分の何かが欠けていると感じている沢山の人にお勧めする。個のインテグレーション・プロセスである。禅的に言うところの 円 になって完結するプロセスである。

ダイアモンドロゴスは現代心理学と古典的精神世界の教えがうまく統合されている、現代人の私達に当てはまるようにプログラムされたワークプロセスである。まったくの一般人であった私に縁がない光明、ラッキーかな和尚を見て知った。そして、知ってか知らずか、すべての人がそれを欲している。もちろん、エゴのレベルでないよ。

ダイアモンドロゴスの古典的精神世界の教えは、中近東のスーフィズムと、仏教、それが上手く機能している。そして、このメソッドの教祖であるファイサル (ダイアモンドロゴス・ティーチングス) とアルマース (ダイアモンド・アプローチ) はクエート人である。故に、その教えの中で日本人が聞いたことのない中近東辺りの秘儀を知ることができる。

最初、何だか、きらきらした世界観でついていけないかも、と私は思っていた。例えば、ダイアモンド・ボディとか、ポイントオブライトとか、ジュエル (宝石) とか、シャンデリアとか、城壁とか、って単語がバンバン出てくる。ははは (⌒▽⌒;)

でも、レクチャーを聞いているとそれはスーフィズム的な例えであって、分かってくると悪くない。私はふわふわした訳の分からないもんは嫌いである。キラキラしているなら、そのキラキラが何かの形で証明されなければならない。筋が通っていて、理屈が通らなければ信じるに値しないと考える人なのだ。ここにエニアグラム7番と言われる者のfixation がある、もしかして、5番的かな? とにかく、私はそうである。 

話を戻して、香港にいる時はまだ、水の中の泥が鎮まりきれていず、頭の中をまとめたいのにまとまらず、ただボンヤリと観光しているしかなかった。

香港から成田行きの飛行機に乗った途端に頭が回転し始め、インテレクチャルなレクチャーから3つのドメインについて詳細を書き込んでいこうと思ったんだ、でも、ここまで書いて、ブログの文章があまり長いと良くないと気がつき、一旦、ここで切る。ははは〜。



3.08.2016

興奮のもとになったのは

香港を経つ。今、成田行きの飛行機に乗ったところ。point of light の情報量が多く、まだまだ、settling してない、何がどうなのか、自分に言い聞かせるために記述したい衝動がずーっとあって、ここでやっと頭を使おうと思う。

リトリートの2日目、私はかなり興奮した。何故か? 私の今ある状態は和尚がいたプネー時代から続く。和尚が body を離れ、マテリアルな世界からマスターが姿を消した。すると、自力で登っていかなければならい。あの時点では、和尚の臨在が、まったく私の努力なしに、高い高いところに引き上げてくれていた。

和尚を知る前の私、和尚と共に過ごしたプネー時代の私、和尚が消えてからのプネー時代の私、マテリアルな世界に戻ってきた現在の私。

マテリアル・ワールドは楽しい、楽しんでいるけど、これでいいのか? っと言う疑問はいつもある。ひょっとしたら、私は何かを諦めたのか?  もちろん、これまでに積み重ねてきた努力の結果 (努力したよ)、人生は明るく豊かなんだけど、何かを脇に置いたままにしている感が常にある。それは、いつか、最終的に取り掛かるものとして。

だからね、自分が不確かなんだ。ここんところ、説明するのは難しいんだけど、 きっと、サニヤシン、分かるかもしれない ?

いつか、最終的に取り掛かるっていつ? 取り掛かるって、何に? どの程度だと、取り掛かっていて、どこからが、まじ逝ってる? Absolute (絶対、もしくは絶対的な存在) と、このマテリアルな世界をどう行き来するの?  私はどの地点まで近づけたの? それともまったく近づけてないの? たくさんワークされて人生、楽になったさ、でも、この調子で進んでいけばいいの? 私は本当に逝けるの?

その答えが point of light の2日目にやってきたんだ。そりゃ、興奮したさぁ (o^^o)  

日本的、仏教的な考えで、修行の末、そこに辿り着くんだと。同時に、スピリチュアルな教えや科学的な考えから、私たちは生まれる前にそこに属していたとも聞いた。一般的によく聞く話だね。まぁ、そういう話を総合して、信じてんだか、信じてないんだか、一定の理解に結びつけようとしていたんだけどもね。

ダイアモンドロゴスの教えもそこからかけ離れていないんだけど、このコースで私の何かが弾けだんだ。DLT ではこう描写するよ。3つのドメインがあって、1つはマテリアル・ドメイン、1つはエッセンシャル・ドメイン、1つは アブソリュート・ドメイン。ドメインとは領域のこと。

マテリアルはこの実質的世界、思考、感情の世界。エッセンシャルは本質的要素な世界。アブソリュートは、すべてを映し出すスクリーンと言うか、絶対的なものと言うか…

そして、これもよく聞く話だけど、私たちはこのどれにも属している。と、同時に私たちはこのすべてであり、決して fragment 破片ではない。

それで、私が落ちたのは、超超めっちゃラッキーであれば、「いつか、oneness が体験できるのか ⁉︎ 」という考え自体が根本的に間違っていると知ったこと。この考えこそが、いつか、最終的に取り掛かれると言う希望と期待に刷り変えられ、そんでもって、それが期待である限り、失望が待ち受けているってわけさ。だから、いつまで経っても取りかかれないんだ。失望があるって知っているから。

だって、oneness って知らないけど、知らないなりに、多分こうじゃないの? ってイメージがあるからそれ以外は oneness じゃないと思い込んでいる。エゴ・ドメイン的な形で。DLT で言うところの looking for the thing in the wrong place  ってやつさ。すると、いつも失敗に終わるんだってさ、間違った場所で見つけ出そうとしているから。

マテリアル・ドメインは分かる。日常生活そのものだからね、それに私は思考のエキスパートさ。エッセンシャル・ドメインも分からないことはない、喜びとか、嬉しさとか、パワーとか、その他の体験的な様相として、じゃ、アブソリュート・ドメインは? ここが問題。

私はそれをめっちゃ特別なものとして、めっちゃ手が届かないものだと考えている。遥か彼方のギャーテイ、ギャーテイ。エンライトした人だけが味わえるものとして。これもイメージだね。間違ったイメージを持ち続けていたよ。

じゃなく、私はアブソリュートに蓋 (イメージで) をしているだけと分かったんだ。イメージはあくまでもイメージで、そんなものは私の中に無いんだと思い込んでいたよ。例え、あるって聞いたとしてもね。信じる、信じないの以前に、そんなこと、一般的な架空の話としていたんだ。

Point of light の2日目に、私たちは無意識にも、マテリアル・ドメイン、エッセンシャル・ドメイン、アブソリュート・ドメインを行ったり来たりしていると耳にした時、私の中にある鍵穴に鍵が入ってカチッとなった、パズルの最後のピースがはまった、最後に取り掛かるはずの何かが取り去られたんだ。ベールが取れたとも言っていい、その時、この3つに境界が無いと知った。

アブソリュートはギャーテイ、ギャーテイではなく、今ここに在る。今、私はルンルン気分である。気分と言えば、マテリアル・ドメインかもしれない、同時にある至福的体験はエッセンシャル・ドメインかもしれない、そして、その下に静かな沈黙が在ることに気づいている、これがアブソリュート・ドメインだ。

私はこの3つを体験し、内面で展開させている。内面と言っても、外側/内側なんて無い。私はただ、イメージを落とせばいい。あとは、浮き上がった泥がゆっくりと落ちていくのを見ているだけ。

でね、そのレクチャーの後にインクワイアリーがあって、その時に浮かんだイメージ (笑 が笑える。

マテリアル・ドメインで、必死に (笑 、遊びに夢中になっている (笑  リトル・コマラギータが、遊びの中で身を滅ぼさないように、しっかり、アブソリュートに首根っこをつかまれていて、しまいには、「もーええやろ!」って!

『ん?』



3.07.2016

ノートブック

香港で目覚めた朝、なかなかアクションが起こせない。とはいえ、だらだらと過ごさないように、何とか、シャワーを浴びた。体がめっちゃ怠い。point of light のインテンシティから離れ、大容量のインフォメーションが水の中に舞い上がった泥のように、なかなか地に落ちてくれず、静かに待つしかないようだ。それだけ、興奮してたんだね。

何に興奮していたのか思い起こそうと、2冊にわたって書きなぐった文字を見ようとするにも、どこの何を見たらいいのかわからないぐらいの書きなぐり方、ははは。猛スピードで書いたよ、それでもついていけなかった、英語ってものあるし、時々、先生の声と、私の思考と、同時にやってくるから、ノートが文字なのか、絵なのか状態になっているところもある......

まぁ、でも、幾つかの層に渡って確実に受け取ったものがある。それが落ち着くのを体が待っている感じ。そんな朝だね…



大容量で参った!

初日に、インテレクチャルなレクチャーがないから物足りん!っと偉そうなことを言った私が恥ずかしい。Point of light はエニアグラム 7番の私でもこなし切れないくらい大容量のインフォメーション、まぁ、こなしきれると言う浅はかなアイディアが有るだけなんだけど (笑 

今日、このグループで最後のインクワイアリーの相手 エニアグラム 4 番のヤングチャイニーズメンは、情報量が多すぎてクラクラして気分が悪くなったと言っていたよ。

彼は、自分はエモーショナルタイプだからハートで受け取るのでインテレクチャルは頭に入らないんだって。で、ハートで受け取るにもオーバーウェルミンだそうです。私と異なるセンソリーでも、こなし切れない情報量だって。

それほど、いっぱい、いっぱいの内容。この多くの情報の中で、自分がどこで引っかかるか、引っかかったら、見逃さずにさっさと受け入れてしまうのが早い道だと分かった。

今回のこのクラスは、みんな自分がエニアグラムのどのナンバーかクリアーに知っていたよ。だから、理解が早いし、個人的に何をどう受け取ればいいか素早く察知してどんどん入っていってたね、ほんと、凄いと思った。

まず、この先生がエニアグラムのティチャーだってことが強み。ダイアモンドロゴスのプロセスにエニアグラムは欠かせない。エゴ心理学だからね。で、おかげさまで、私もエニアグラムがもっと分かり始めてきた。エニアグラムだけのワークだったら限界があるんだと思うけど、ダイアモンドロゴスと一緒にプロセスすると最強 ‼︎



3.06.2016

とんでもない事が起こったよ

DLT の point of light 3日目の午前中にとんでもない事が起こった! 

リトリートは毎朝、チャンティングの後に30分ぐらいだろうか、静かに座っている。そして、今日はそのすぐ後にトランスミッションと呼ばれるガイダンス瞑想があった。DLT で言うところの point of light が 自分と一体化? するような内容だと思うんだけど、途中から全く先生の声は聞こえていない。

と言うのも、中国に来る前、クラニオバイオのコースでファイシャルダイナミクスを終えたばかり。チャンティングの後に目をつぶって静かに座っていた時点で、私は自分の頭の中の硬膜と篩骨の運動を手も触れずに追っていたんだ。篩骨の動き、肩の緊張、あっ、今、均衡状態、あっ、緩んだ! ってな感じで。

そのまま、トランスミッションに入って行ったんだけど、先生のガンダンスに従って point of light が頭上に来た時、point of light が私を体から引っ張り出そうとするんだ。最初は優しく、そして、首のちょうど緊張のあるあたりが微妙に捻れ始め、いきなり、産道からの出産体制に入り、母の感情や出産の苦悩やらが一気に流れ込んできたよ。

で、何んとか、生まれ落ちたんだけど、母の苦悩から自由になりたくて早くへその緒を切り離して欲しいと言う思いが強くなっていくんだ、どうしようもなく、そうこうしているうちに、また、いきなり、へその緒が引っ張られて猛スピードで子宮に引き戻され、それでも、へその緒は私をさらに引っ張り戻し続け、子宮から宇宙へ、宇宙から絶対なるものに引き戻したよ。そこが、私がへその緒でつながっている最終地みたく。私は戻されて「わぁ〜ん」って泣いてたよ。

私はまだ苦痛の中にいて、絶対なるものであろうが、なかろうが、早くへその緒を切って欲しいと願っていたよ。何にも束縛されず、誰の配下でもなく「早く自由にしてー!」って泣いてたよ。

へその緒が切れたかどうか分からないが、何だか、成人した自分サイズになった。

そんな体験んをしているうちにトランスミッションが終わり、みんなのシェアリングに入って行った。多くの人が美しい体験のシェアーだったんだけど、それを聞いているのが辛く、だんだん、自分がめっちゃ繊細な状態にあり、この場に居たくないんだとわかった。

その後は散々で、説明できないけど、あえて言うなら、皮を剥ぎ取られたウサギな状態。疲れ果てて、眠たくて、眠たくて、お昼休憩に入り、自分の部屋で少し眠ったはいいけど、午後の集まりのために起きても体は痺れたまま。

何だったんだろう?? 

午後も終わりかけ始め、チャイニーズ達の明るくて愉快なフレンドリーさに包まれ、ようやく自分を取り戻す事ができてよかった。



3.05.2016

エゴを上手に育てあげる

さぁて、point of light の2日目で、もう大満足してしまったさ。あと2日もあるのが信じられない。私は すでに ready to go the market place なのだ o(`ω´ )o  

でも、これを読んでいる人には、何がそんなに ready なの? と思うだろうから、ちょっとだけ説明してやってもいいよ (笑  レクチャーの内容をそのまま話してもプロセスが抜けてピンとこん人もいるだろうから、はしょってね。

Point of light はあらゆる形で体験する事ができる。体の内側、外側に。それ故、色んな呼び方ができる。まぁ、沢山の名前を持っていると言うわけさ。それは、私が習った5つのラティファのような質物 (本質的要素) ではないんだ。本質的要素ってのは例えば、love とか、will とか、power とか。

Point of light は色んな形で体験できる、色んな形で現れるからたくさん名前を持っている、が、それはあえてここで書かないことにしよう。沢山ありすぎてぶっ飛んでしまうよ。

ただ、重要な理解は、私たちは常に完全なるものを求めている、そして、エゴが、私は誰か? who I am ?  と探求し始める。

完全なるものは答えない。

しかし、エゴは soul を体験することはできる。だから、 soul に仕えるわけさ。そして、soul が持っている本質的要素を現実化しようとするわけさ。だけど! それは体験を再体験させようと言うエゴの試みだから、リアルではないわけさ。

例えば、エゴはどこかの時点でlove を体験した。もう一度その体験を取り戻したい。で、love を真似てみる。本物じゃないからフラストレートするでしょ、でも、なんとか試みようとする。自分を変えようとしたり、fixしようとしたり、でも、エゴ自体は変える事ができない、だってエゴはエゴだから。

エゴは初めは、soul に仕えていたはずなのに、しまいには shadow (物真似) に仕えるように落ちぶれてしまうのさ。で、私たちは 「自分が誰か? 」を探求するけど、shadow の中での探求だから、いつも失敗に終わってしまうわけさ、だろ? looking for the thing in the wrong place ってやつさ。失敗しては shadow を追い、また失敗しては shadow を追い、っといった具合に。

出来ることはただ1つ。エゴを正しい道に乗せてあげることさ。エゴを上手に育ててあげて soul のタスクへ向けるわけさ。

あのね、今日のレクチャーが余りに盛り沢山だったのでここまで書いて悪いんだけど、もう、寝る。この後のレクチャーで私はぶっ飛んだんだけどね。(o^^o)  お休み〜



3.04.2016

Point of light 興奮の second day !!!!!

先ほど、昼食を終えて自分の部屋に戻ってきた。この午前中に、私が望んでいたインテレクチャルな ! レクチャーがあった。同時に、昨夜、もう一人の日本人参加者ハンニャがやってきたので精神的にホッとしている私もいる。彼女はこの先生について5年ほどワークしているし、中国語も堪能なので心強い。

さぁて、point of light の姿がうっすらだけど見え始めてきた…もちろん、インテレクチャルにだけど (ぷっ)…思考的理解が無いと満足感に欠ける私がいるのよ (^_^;)

昨日に引き続き、驚きは、先生がそのめっちゃinterestingなレクチャーをほんの10分から15分程度しただけで、チャイニーズ達の反応が凄かった (私も興奮してたんだけどね) で、そのままみんなが興奮しちゃってシェアリングに突入、それも、チャイニーズなシェアーってのが、自動的に究極理解にジャンプして自己完結するのが凄い。

ちょっとした休憩時間に先生にその事を伝えると、先生自身もびっくりしたらしい。本当にマチュアな奴らだ。とは言え、私はまだまだインテレクチャルな話が聞きたいと、ちゃっかり先生に伝えておいた。すると、休憩の後、はははは…先生は私のマインドにこれでもかぁ〜っという程の分量でレクチャーしてくれた、それも、期待をはるかに超えた内容、 出来るものなら皆んなに聞かせてあげたい!

ああ、私の知りうるサニヤシンの友人達よ! きっと、あなたも私のように興奮するに違いない!!

和尚が出来なかったインディビジュアルなワークがここにある。あなたがどーしても知りえなかった事がここにある、そう、その通り、私は受け取った‼︎

ってか、いいのか? そう言い切っても (o^^o;)  私は本当にその可能性が大きく見えたんだ、見えたというより、落ちたよ‼︎ 


ポイントオブライト in China 初日

中国で受けている DLT の the point of light 、今日が初日。どのような内容かまだ見えてこない所に少々苛立ちを覚える私がいる。

先生は今日はランディングだと言う。レクチャー無しに参加者のプロセスを促し進んでいく。エニア 7番の私にはインテレクチャルな説明がないのでなんとも言えない1日だった。取っ掛かりが分からん、と言うのが正直なところ。

「トルコの時と事情が違うぞ」チラチラ私のエゴが見え隠れする。そういった部分を確認しながら自分をアジャストするのに手間がかかりそうだと思い知らされた。

このチャイナグループ、このスペースが私にとってまだ安全だと受け取れていない。仕方がない、ここが最初の関門となる。どこで私はそれを気にしなくなるか? まぁ、見ていよう。

よく考えてみると、そのこと自体が私のプロセスの始まりかもしれない。

しかし、コース自体のインテレクチャルなレクチャーが無いとは言え、チャイニーズのシェアリングのクオリティが高いのに、正直びっくり。

その中から、今日はエニアグラムについて幾つか知ることが出来た、それが今日の収穫と言えるかもしれない。特に、エニアグラム 4番について。このグループは4番が結構いるようだ。ある意味、逆に、彼らのシェアーがこのワークの理解に結びつけてくれた。

レクチャーがなかったせいもあるかもしれんが、こう言った心理的なグループセラピーは先生やセラピストが進行させるんではなく、参加者のプロセス自体が進行の流れを作り、コース自体を進行させていくんだとハッキリと見えたし、そうであると理解した。まぁ、そりゃそうだけど、先生として絶対にその事を忘れちゃーいけないと肝に命じた私がいる。

中国の参加者は、かなりアドバンス、どんどんシェアーしまくる。ここに至るまでかなりワークされているんだろうけど、ひょっとしたら、精神について何かしらの中国伝統的理解が一般的に普及していてすでに身についているのか、とにかく、あなどれない、チャイニーズ達。


3.03.2016

香港へ

ほんのついこの間、トルコのDLTイエローから日本に戻り、成田から伊丹に飛んだあの日も快晴で富士山が綺麗だった。DLT とはダイアモンドロゴスチーティングのこと。

今日、飛行機から見た関東平野の広さにびっくりポン! 東京の仕事を終えてそのまま成田から香港へ。何しに? 再び、DLT 。 

point of light と言うコースを受けに行く。5つのラティファを終了した後に受けれるコース。トルコから、一ヶ月も経っていない。

トルコとは違う先生、中国で教えている彼も彼方良き時代のプネーで顔見知りな人物。サニヤシン、どこにいっても極めてらっしゃる(o^^o) 

中国のイミグレーションを通過するのが不安だとメールしたら、ラッキーな事に香港空港まで先生が迎えに来てくれる。

今、香港行きの飛行機の中。トルコのコースのすぐ後だからプロセス的には短く理想的、コースの内容さえ知らずに飛び込んだ。さぁて、日本に近い中国でどんな体験になるやら、お・た・の・し・み  (o^^o)


2.15.2016

本能のままに。

自身のイエローを見つけ出すのに "want" を探索する。何故なら、イエローは quriocity、知りたい、行きたい、触れたい、味わいたい、故に手に入れたい‼︎   たい、たい、づくしである。

つまり、欲しているのだ ( ̄+ー ̄)

だぁ〜が! 欲するにも、種類ある。本能的な欲求は寝る、食べる、ファック。心理的な欲求は価値観、共感、愛される、勝る、知る、etc。

ここで重要な事は、本能的要求。私のこの3つは満たされているか?  

この3つは一度手に入れたら満足して、もう、欲しいと思わなくなると言った代物ではない。ほぼ、毎日、欲したくなる代物だ。ファックは、食べる寝るほど必須ではないと私は思い込んでいる。

だぁ〜が! 生れ落ちた瞬間から死を迎えるまで私の要求は生理的に続いていたのだ。それを知ったんだ、イエローで。それは、vital にそこにある。無視しても消えることはない。

この、私のプリミティブな要求がどこに向かうか、とっても qurious である。


トランジット

イエロー・ラティファを終えて、いきなりアタツック空港。トルコから東京へ帰る搭乗待ちはここに来るつもりだった o(`ω´ )o  

前回も時間がたっぷりで美味しそうなサーモンに引き寄せられた。そう、お一人様、最後までのんびり楽しむ。

今日は、6 種類のサーモン盛りと、バーテンダーのお勧め Kir Royale と言うえんじ色のシャンパン!

 うん、美味しい  (=´∀`)人(´∀`=) 

イエローのプロセスで欲しいものを自分に与えていないという人がいた、その点、私は大丈夫だ。

必要な時に、自分をnourishしてくれるものをちゃんと見つけ出し、そして、手に入れる術を知っている。私は欲望に忠実なのだ。

先生に質問した。

例えば、多分、この瞬間はホワイトエッセンスで 意思 がマニフェストしている瞬間かもしれない、または、ブラックの深い沈黙がマニフェストしている瞬間かもしれない、でも、ひょっとしたら…

それらの下にこのイエローがいつも横たわっているんじゃないかしら?  と言うのも、どのエッセンスがマニフェストしても私はある種のエクスタシーに直結する。

先生はこう言った、そのトピックスは、次なる段階のリトリートで話す内容なんだ。なるほど、私は順調にプロセスしているようだ。

ダイアモンド・ロゴス、おなどれなぁ〜い … ふふふ、シャンパンがそろそろきいてきたようよ。

 ( T_T)\(^-^ ) コマちゃん、よしよし。


クリティカルにバトる



ダイアモンドロゴスを知って以来、エゴとスーパーエゴの理解が生まれ、ここに来てやっと、この2者の一般的理解ではなく、私にとっての実物大で理解できた…


居心地の悪い感覚の状況にある時、何故だか、言葉で描写する事が私にとって、とても大事なんだ。なぜ、言葉なのか? は、いずれ解明するだろうと期待して…

分かっていることは、居心地が悪いと言う事実を受け入れた後に起こる得体の知れない恐怖にまみれた感情とバトるよりも、圧倒的にうち寄せる思考とバトる方が私にとって安全な策なんだな。

状況的に、感覚的に、言葉を通して腑に落ちたら、精神にピースが知覚される。超完璧なセンテンスでも浮かぼうものなら、さらに寛大な気持ちに達する事ができると言う順番らしい。

無限に散らばっ言葉をパズルのように取っ替え引っ換え、猛スピードで最良のセンテンスを生み出すために立体的な組み替えが起こる。シナプスがブチ切れそうになる時もある。脳が熱を持つ、そして、第三の目の辺りにモヤモヤと集中される。

今日、見えた事。「嫌だー!」というエゴと、それをとてもクリティカルに正そうとするスーパーエゴが、このバトルの戦士なのだが、私の場合、この2者は相手を痛めつけようと戦っているのではなく、完璧なセンテンスを生むため、互いに協力し合っていた。

そう、この2者は、バトりながら真実を発掘していたのだ。真実に近づこうと脳を超活発化させる。

私にとっての完璧なセンテンスとは、可能な限り短かく、真実のみで形成されていなければならない。

ゆえに、この2者はどちらもマニピュレートできず、ほんの少しのマニピュレートでも入っていようものなら、センテンスはその完璧さを失ってしまう。そんな事にも、めっちゃクリティカルな私がいる。

逆に、マニピュレーションされたセンテンスが口から出ようものなら、数日落ち込んで、さらなるお一人様思考バトルに突き落とされ、出てくるのに一苦労する。精神的にも体力的にもめちゃ消耗、で、壊れる。エゴもスーパーエゴも撃沈。このパターンである。

これが目に見えてきたのだったら、思考がスピンし始めたその瞬間を捉える事ができ、待てよ、居心地悪いのか? っと、バトる前に落ち着いて思考以外の事実にスペースを与える事ができる… できたらいいなぁ、まだこの段階である。

そう、これを書いているこの瞬間、体に目を向けるとあちらこちらが痛いのに "考え中" の看板を出していた。ぷっ、可笑しいよね。

ひょっとして、センテンス作りが楽しいと言う域にまで達しているのかもしれない… ってっか!? 

だったら、シリアスにならずに済むはずだ…

このオチでちょっと安心した、この場合、「シリアスにならずに済む」が一応のところ、完璧なセンテンスに一歩近づくキーセンテンスである。

ははは (o^^o)

一休み、一休み。



どこまで行くんだ、私は!

私にとって何かとても重要な事がマニフェストしたみたいだ。で、何故か「こまちゃん、炸裂〜」と言う友人トーシャンの声と顔が浮かんだ (-_^)

私はこのイエロー・ラティファで何をプロセスするんだろう? と思ってやって来たが、いい意味で、予想外の事が発覚していく。

インテレクチャルな講義の内容は面倒なので詳しく書かないが、イエローは、本当に、本当に、"自分らしさ" についてなのだ。

今日の幾つかのインクワイアリーのひとつ、「あなたが本当に欲しいと思っている何かについて話してください」

これはリピーティング・クエッションなので、欲しいものは何か? と、何度も何度も聞いてくれる。嬉しいじゃぁないか。欲しいものはいっぱいあるだ。

人によって違うだろうが、精神的な何かだったり、物品だったり。

その後、2つ目のリピーティング・クエッションがあった。「あなたの "秘密の欲しい" ものについて話してください」

意図がわからなかった。最初のリピーティング・クエッションでそれに取り組んでいた人もいるはず。

秘密の欲しいもの? まぁ、人に言えない欲しい物の事なんだろう。 ないなぁ、今、この時点で人に言えない欲しい物が頭に浮かばない。

で、ふとした瞬間、口から出た言葉は「Beautiful Pussi」

インクワイアリーのパートナーが爆笑。言った私はこれっぽちも恥ずかしくなく、一緒に笑い転げた。

シェアリングの時、思い切って先生に聞いてみた。Beautiful Pussi は色んな意味を含むことができると思うのですが、心理的な "欲しい物" と言うよりは、もっとイドからくるプリミティブな desire だよね、どうでしょうか?

先生が幾つかのことを話してくれている間に、私は、私のエッセンシャルなバイタリティを見つけ出す事が出来た。

例えば、セクシャルオーガズムは、偽りなく、すべてを満たしてくれる。この甘美な体験に手放しでレットゴーしたいと思わない人がいるだろうか。

欲しいものはボーイフレンドではなく、Beautiful Pussi なのだ。リレーションシップを欲しているのではなく、そう、純粋にプレジャーを欲している事になる、つまり、めっちゃプリミティブなのだ。

それはバイタリティにつながる。つまり、aliveness  を欲している。そう、要するに、瞬間瞬間をエクスタティックに体験していたいのだ。

これが私のイエローなのか? すごい!

今日の最後のセルフ・インクワイアリーで私は「イエローさん、allowing 満開でいきましょう」と告げたんだ…

ははは、どうなる事やら…


何か、むけたか?

ダイアモンドロゴスのリトリートは講義の途中にインクワイアリーが入る。2日目、午後に入って最初のインクワイアリー、あの "馴染み" の、頭が真っ白になる状態に陥った。

乖離しているのではないが… もう何も浮かばない、もう何も感じない、全てが無感覚になる。まるで、音響遮断の真っ白な箱の中にいるようだ。

ただ、この状態に気づいている事ができるだけで、思考をふり絞ろうとしても単語のひとつも出てこない。

who is in やセラピーを受けているときに起こる馴染みの感覚である。こうなったらもうどうしようもない。にっちもさっちもいかないのだ、何が起こったのかさっぱり分からない。

不思議なことに今回は、同時に怒りを感じ始めた。こんなことは初めてだ…  私は間違いなく怒っている。しかし、この状態で感情が知覚されるなんて…

後で思ったのは、私は、講義に耳を傾けている間、知らず知らずに自分の中の何かを allowing する許可を与えたのかもしれない。

その後の講義の後、再び、新しいトピックスにインクワイアリーする。

で、何と、また、真っ白になった。無思考、無感情、無感覚…

Oh No !!!!!  何やねん、いったい

ちょうどそれが起こる前、私は no planing と allowing について話していた。仕方がない、これさえも受け入れてみるか… 遮断された白い箱の中、無思考、無感情、無感覚…  はいはい… 

ここで言葉に置き換えているが、実際は思考がないので状態を見ているだけなんだ。

すると、突然…

"真っ白な状態" の質が変わった。ベールがふわぁっと取り去られて、一瞬、胸から熱いものが湧き上がった。

Oh Yes‼︎‼︎  知っているよ、この感覚

who is in で起こるあの素敵な感覚、深い静けさに落ち着いた瞬間、あぁ… 笑みがこぼれた。

今朝のノーダイメンションのアクティブ瞑想が即効的にそこに至る手助けをしたんだなっと分かった。

そして、ひとつ言えることは、真っ白な体験は、マインドの支配が行き届く境界を、何故か、いきなり飛び越えてしまったんだ、っと思う。予告なく、一瞬にして宇宙の果てに放り出されたように。

思考がとどかない領域、言語が、突如、消えた。

でも、言語が消えても状況を受け入れることはできる。受け入れるのに思考は必要じゃないし。ただ、明け渡し、それも allowing 。

これまで、長年の間、真っ白になるのはショック状態に入るトラウマの影響だと思い込んでいたんだ。

だけど…  そうじゃないとだとしたら、すごい発見だぁ。

ちきしょ〜! ここらで一発、Who is in リトリートに参加したい‼︎


2.14.2016

イエローは誰もが取り戻したいエッセンス

講義を聞いているだけでもわくわくしてきた。誰かが質問する、このエッセンスを特に受け取りやすいエニアグラムナンバーはあるのか? 

先生が答える。エニアグラムのすべてのナンバーがそうであり、それぞれのナンバーが違う形でユニークにマニフェストする。

その資質は Joy, lightness. Sweetness, Spontenious, Curiocity, Fearless, wondering, preasure....
子供が持ち合わせているすべての質がそうである。

これらの質が成長の段階で誰かに拒否され、抑圧するように強いられると私たちはこの素晴らしい資質と繋がれなくなってしまい、シリアスな大人を演じるようになっていく。

抑圧された子供の喜びはねじ曲がった形の要求を表すようになり、また、成長してからも子供じみた振る舞いをしたりする。本質的な要求のエネルギーが拒否され、そのエネルギーのサイクルが完了せずにフラストレーションに変質するのだ。

そして、私たちは本質的要求を自ら拒否する頭でっかちな変な大人に成長する。残念! イエロー・エッセンスはめっちゃ美味しい! 



2.11.2016

イエローが始まる前に。

イスタンブールで起こったテロのため、今回は空港から会場へ、終わったら会場からちょく空港へ。私らしからぬ旅ですがテロはやっぱり怖い。でも、アタツック空港に着いてみると、今回はイスタンブールの街をうろつけないんだと言う寂しさをちょびっと感。で、私はきっとまた、ここに来るんだろうと予感。

会場のホテルには午前6時半頃に到着。ホテルの従業員はいず、タクシーのドライバーさんが私の部屋をなんとか見つけてくれて勝手にチェックイン。荷物をほどいてベットイン、お花柄の寝具に包まれて数時間眠る。

ダイアモンドロゴスのラティーフシリーズの最終、イエローラティファ。イエローはエニアグラム7番の色、つまり、私の資質的な色らしい。イエローは嫌いではないが、イエローもんの物はほとんど持っていない。

ここにくるまで、このイエローラティファにくるまで、結構なプロセスがあった。今では、私の人格的振る舞いに対して大きく気づきが起こっている。これまで、気づきに至ったとしてもそのまま放置していた。放置していたというよりも、自動的に起こって防ぎようがなかったと言った方が合っていると思う。

瞑想とは別のところで、自分を野放しにしていたという事は知っていたけど、もう野放しにしておくといけないのだろう。結構無責任な言い方だけど…。

今回のイエローは私の何に気づかせてくれるのか楽しみなのと、大きなブロックがあるなら、それを手放せるといいなぁ。心からそう思う。


2.06.2016

感情タイプ、思考タイプ

ダイアモンドロゴスを5年に渡ってプロセスしているもう一人の日本人がいる。ソーシャルサイトで互いに軽いご挨拶は済ませていたけど、先日、ようやく会うことができ、たくさん話をしたんだ。

その中でエニアグラムについて、私は7番、彼女は4番。7番は思考タイプ、4番は感情タイプ。私は7番の自分が徐々に分かってきたつもりけど、4番の人は自分をどのように分析してるんだろう? と思い、彼女に聞いてみた。

「4番の自分をどういう風に見てるの?」彼女がそれについて幾つか話した中で「感情のスペシャリスト」と言う表現を使った時、「あぁ〜」と感覚的につかめたような気がした。と言うのも、"そうか、私は思考のスペシャリストだったんだ" とその時、自分のことも理解できた。「どういう状況で、どういう時に、どういう感情が表れるのかよく知っている」と彼女は言った。

私は感情が苦手、感情の気配がやってくるだけで自分がメチャメチャになってしまうと思い込む。ゆえに、私は感情から遠ざかろうとする傾向にある。私にとって感情はモンスターだ。

ともかく、私の中で、思考タイプのメカニズムのひとつがはっきりした。それは、精神的に不安定な "感情の気配" がやってこようとする時、それが感情という形態をとる前に思考が猛スピードで活性する。つまり、感情を突き動かすエネルギーで思考が回るのだ。

なるほど、ふん。で、私はこんな感じで理屈で理解するとめっちゃ腑に落ちるタイプである。そして、今から思うとそうだったのかと思い起こす事がある。

私が精神的に不安定で追い詰められている時、頭の中に色んな種類のセンテンスが "爆発的に発生" し、まるでパズルをやっているように、その数え切れないセンテンスがカラーキュービックをクリクリ回すように何次元にもオールダイメンショナリー、切ったり貼ったりされて完璧な配列になるまで脳が猛スピードで働く。実際、これが起こると、頭の中が熱を持ったようにカッカする時もある。

そう、完璧な整列のセンテンス(自分なりのですが)になるまで脳は止まらない。自分では止められない。脳がそのように活性してしまっている。精神的に不安定な状態から "安心" が知覚されるには完璧なセンテンスが生まれなければならない。

そこに至るまでたいがい物凄く疲れてしまう。至らなければ、完璧なセンテンスが生まれるまで何日もかかってしまうことも稀ではない。っと言う自分を知ることができた。実に、何が起こっていたのかを知った。そう、言ってみれば、精神的に不安定なだけだったんだ、安心のための完璧なセンテンスだったんだ、げげげ。

きっと4番の彼女には、思考でなく、これが感情で起こるんだと、その時、ふと思った。爆発的に発生する色んな種類の感情とやりあっているのだろうと。私が "完璧なセンテンス" を求めるように、4番が "完璧な感情" を探し求めるか否かは定かでないが、もし、完璧な感情というものがあるのなら私も知ってみたい。