3.12.2016

Point of light 続き





まずは、Facebook にコメントした内容を記述。
ブログにも残しておきたい。

そして、ブログの方は、その後に、更に続く。



--- Facebookのコメント---

簡単な話にすると、point of light という乗り物に乗って私たちは旅をする。
産まれる前は Abusolute 絶対的なフィールド、ピュアーアウェアネスであった。

その 境界と制限のない oneness から切り離され、
point of light は物質界に精神を持つ魂と呼ばれる個の存在となる。
この精神は無知から知識、知識から知恵と成長することができる。

個となった存在はこの星で集団的に "何か" をやり遂げようとする。
個のクリエイティビティ、マス (集団) のクリエイティビティ。

ある意味、自分を証明しようとする。

そこに、point of light に備わった本質的な要素、愛、共感、意志、力強さ、喜び、
継続性、想像力、創造力、沈黙、慈悲、などといったツールがある。

しかし、個がマス(集団)になった時、道徳、比較、罪の意識、
恥などが新たに生まれた。

証明はこれらからいかに逃れることができるかに置き換わる。
そして、本質的要素はこれらの新しい制限的意識に乗っ取られ、忘れ去れてしまう。

DLT は、どのようにしてそれを失ったか? 失ったものは何か? 
本来の自分の個性を発掘する。

個であり、それぞれがユニークな質を持つ個であり、
なぜ、この世に生まれ落ちたのかの意味を知る。

どうも、個には目的があるようだ。

だけど、目的はエゴの知り得るところではないよ。
エゴは point of light に仕えることで目的を思い出す。

私が思うに、自分が楽しいと思えるなら、正しい道の上にいるってことさ。
辛くて苦しいなら、スーパーエゴ(制限的意識)に乗っ取られているわけさ。

で、個がパーソナリティやエニアグラムの fixzation であればあるほど、
俗世界のドメインにマニフェストしている。

個が、point of light に身を委ねると本質的要素の体験として続く。

ここまで書くと思ったのは、point of light は絶対なるものから生まれ、
"情報収集する何か" ではないかと思えてくる。

その何かとは、point が個であれば、光の個。
個はパッセージ(移動、通過、出入り口)で、
パッセンジャー(乗客)でもある。

物質世界を体験する旅に出た "光の個" 。
そして、いずれ、絶対なるものへ帰っていく。

科学的に考えると、パッセンジャーは情報収集する、
量子的な微細界によって成り立つ宇宙という生き物の
神経系的な役割を果たしているとか、ははは、飛躍しすぎ?

まぁ、例え、それがセオリーであっても、
個 (個人) としてマチュア (成熟) にマニフェスト (生きる) できるまで、色々あるわさ。

中国にいた時、こんな話を聞いたよ。
現在に生まれてくる子供はインディゴチャイルドって呼ばれるんだって。

私たちよりすでに高度な頭脳と身体能力があるらしい。
つぅことは、収集された情報は新しい新人類、
バージョンアップした光の個を生み出してるってことでないかい?

 ---Facebook のコメント 終わり ---




ここまでは、Facebook のコメントで書いた内容。

続きがある。

上記のような話は何処かで聞いたことがある話であり、
point of light を受けに来た私にとってさほど重要ではない。
リトリートで耳にした内容に私がコメントを入れた具合である。

私はこのリトリートの2日目に興奮した。
それは何か? ここが、私にとって非常に重要なのだ。

"Absolute 絶対的なもの" から生まれたとすると、それは自分の外にあり、
再び、そこにたどり着く旅をしなければばらない。

宇宙は外にある、神さまも自分と一体ではなく誰か自分以外の存在、
無は私たちの周りにあるが無が私たちの実態であると表現しない。
上記を言葉のまま鵜呑みにするとそういうイメージが払拭されない。

私の興奮は、ある瞬間、それが起こったんだ、
私が無であり、無が私である。

それを宇宙と呼ぼうが、神と呼ぼうが構いはしない。
衝撃的だった一瞬の出来事。

しばらく、それを言葉に置き換えられなかった。
何が起こったのか、分からなかったからである。

探していたものは外になく、この "生身の私" だった。

私はこれまでに、どうも、
イメージを追い掛けていたようだ。

そして、これは違う、これも違う、
あんなどでかいもんが私にコンタクトするはずがない、
半ば、諦めな振る舞いだ。

私にそれが起こるわけはない、私なんかに…。

私は、私のイメージの中でそれを探していた。
イメージは頭の中にある。

looking thing in the wrong place とはこの事。




今日、玄関周りの植木の枝を切っていた。

春や初夏になって新しい芽が出やすいように。

私は至って穏やかで、瞬間瞬間の作業に専念できた。

私が無であり、無が私であった。

私は目を瞑ると自分がどんどんシフトしていくのが感じられる。

開いた扉は開いたまま。









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私自身が教えている クラニオセイクラル・バイオダイナミクス の 施術者養成コース(10モジュール)も期間的に長く1年半〜2年に渡りますが、 私がオーガナイズする ダイアモンド・ロゴス・ティーチングス も 次回の Group2『7...