6.09.2016

エゴを脇におき、静かにいる

今回の Faisal meeting で私に決定的なことが起こっていたのは、静かでいるとき、何であれ、静かに観ている時だった。そして、観察のプロセスがいかにパワフルであるかを体験した。

これまでも、瞑想で静かでいることをしてきたし、インクワイリーで観察もしてきた。でも、そのどこかに、観察の中に、ワンダリングがあった。インテンスに観察している "私" がいた - といった感じ。

今回、そのワンダリングが消えた。本当にただ観察しているだけ。この違いは大きい。"観察している私" と言うより、"観察の状態" がそこにあったと言うのが正しいだろうか? うまく説明できないけど…

ワンダリングがないという事はどんな期待もない。とてもとても控えめな状態だった。私は、私自身にお手上げで、最初のうちにエゴをとにかく脇に置いておくようしてみた。

エゴを脇に置き、ただ、静かにしていると、周りのすべてが違っていた。最初は気づけなかったけど、途中で自分が、あらゆる面でとてもリラックスしていることに気がつき始めた。

Ameno から Milano に移動した翌日、朝起きた時から夜まで、友人に会っていても、食事をしていても、目をつぶればすぐに寝てしまえるほどの睡魔がそこにあった。つまり、どの瞬間でも目をつぶれば眠れるという奇妙な状態。

それは頭だけでなく、体と私の存在全部が眠りに吸い込まれそうなぐらいの勢いで、こんな種類の睡魔は初めてと思う。前日もその前々日も睡眠は十分とっていたのに。

今から思うと、静かな観察はずーっと続いており、この慣れない長時間の意識的な状態に無意識が耐えれきれず、眠りを誘っていたのかもしれない。何となく、腑に落ちる。

付け加えると、この意識的な状態はとてもソフトでインテンスな観察の状態とはまるっきりかけ離れている。まるで、何かに優しく包まれているような感じ。

そう思うと、私に起こっている事はただ事ではないと分かる。これはもちろん、Faisal とその meeting  group の影響なのは間違いない。Faisal と共に静かに座る瞑想が何度かあって、その時の Faisal はとても深く静かで澄んでいた。

彼は私のすぐそばに座っていたけど、その存在が消えていたし、彼のどんな欠片も見つける事はできなかった。ほんの数秒、何度か戻ってきたようにも思えたけど、またすぐに消えていった。そのことが、私に影響を与えないわけがない。

エゴが活発だと、私たちは何も語らずともうるさい存在となり、その人といるだけでとても疲れてしまう。逆にエゴがないと、さざ波のない湖のように静かで透明感がある。

私はこの静かな湖の中にゆっくりと引き込まれていったように思う。例え、私のマインドがまだ漂っていたとしても。

実際、その時、私のマインドは漂っていた。だから、漂うぐらいの控えめなエゴはあった。そして、エゴの漂える層から静寂を覗き込んだ。

自分以外の point of light (ここでは Faisal だが) が深く潜っていたので、私もその深淵を覗き込むことができた。

この体験は私の瞑想の質を変えたように思う、何が? と言うのは言葉にできないけど、つきまとっていた何かがなくなったような感じ。

しいて言えるなら、 I am no one のスペース だと思う。私が誰でもなければ、エゴはとても控えめでいることができる。



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